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人生の伴侶

作者: 朽葉 史帆

 遠くで何かの音がする。

 何の音だろう?


 そんなことを一瞬考えた気もしたが、思考は纏まらずに霧散する。


 さっき聞こえた音すら忘れた頃に、今度は周囲に何もない事に気づく。

 いや、あるのかもしれない。

 ただ黒一色に染まった新月の夜の如く闇の中、忘れたばかりの音だけが響く。


 何故こんな状況に?

 頭が疑問で埋め尽くされそうになるも、どこか漠然とした、しかしはっきりとした言葉が浮かぶ。


 ──起きなきゃ


 途端に先ほどまでの揺蕩う意識が“恐らく”いつもの自分という殻に入り込み人の形を取り戻す。


 覚醒すればなんという事も無い、ただの目覚まし時計の音であった。

 カーテンから漏れる柔らかな光と、どこか鋭さを持った空気が今の時間が朝であると静かに主張している。

 部屋に並ぶ小学生時代からの戦友である机や本棚、選ぶのに二時間かけた姿見、母から譲ってもらったドレッサーに、父から貰った謎の置物。

 全てが、この六畳一間の洋室が私の城だと語りかけている。


 そんな確認せずとも良い事を考えていると、優しくも抗議するかのような襲撃が顔に衝突し、すぐにそれはただ頬を変形させる高尚な遊びに変わる。


「ごめんよ。ごはんだよね、分かってる。」


 我が愛しの君、クロノよりも、五年前に必要に迫られて買った目覚まし時計の音色に先に気づくとは、なんとも猫の飼い主としては落第では無いか。


 いや、愛猫よりもこの目覚まし時計は三年近く付き合いが長い。

 ずる休みという全てのしがらみから解放される禁断の秘術を用い、平日昼という一般人には到底自由の許されぬ貴重な時を、ただ何もせずにテレビだけを眺めるという贅沢な使い方をしている時に見かけた、口うるさい小姑のようなヤツで全く愛着はわかないが。


 他愛のない事を考えたまま、未だに掛け布団に包まれている私に対して、目覚まし時計よりは後輩の、しかし、愛らしい君は匙を投げたらしく、無言の抗議をする活動に移行したようだ。


 でも眠い。

 全てを無視して寝ていたい。

 何故眠いのに起きなければいけないの?

 眠い時に寝るのが健康の秘訣なのでは?

 しかし今日は月曜日。

 知ってる?月曜日は休みじゃないんだよ?


 ずる休みしちゃおうか。

 天使の格好をした悪魔な私がとても非生産的で魅力的な提案してくる。

 駄目だよ、遅刻する。

 悪魔の格好をした天使な私は名残惜しくも却下する。


 それに……


 金曜日に見かけた彼、会えるかもしれない。


 私と彼、恐らく同じ学校に通う生徒AとBである。

 見かけただけだから名前は知らない。

 それどころか、クラスも知らないし、学年も知らない。

 なんなら、入っている部活すら知らない。

 三日経った今は記憶の中の顔も朧げだ。

 ただどこか惹かれた気がして、その気配だけは今も覚えている。

 きっと彼はただの人間ではあるまい。

 ただ見かけただけの、生徒Aである私の記憶に三日も残るなんて、きっとそうに違いない。


 勝手に抱いた想いの責任を、それこそ勝手に一度見かけただけの生徒Bに押し付け、のそりと墓から蘇ったゾンビのような動きで起き上がる。


 ようやく起きたかと呆れる目線を受け流し、いつものルーチンワークをカーテンから漏れるやや強くなり始めた朝の陽射しに目を細めながら、プログラムされたロボットの如くこなすことに決める。


 誰もおらず、先ほどまでとはうって変わって薄暗い、まるでまだ夜であると勘違いをするような一階に降り、迷わず洗面所へ直行。


 鏡に映る到底自分とは思えない姿を一瞥し、今の時期はまだそこそこ優しい、ただし例年通りであれば二か月後には裏切り、宿敵となる事が確定しているコウモリな水道水で顔を洗う。


「うん、今日も私は一番かわいい。」


 鏡に映る新しい私に最大限の、しかし安直な賛辞を贈る。

 決して嘘ではない。

 前提条件に“この家の中では”という但し書きが付くが。

 それに、自己肯定感はいくら高めても損はないらしい。

 二つ後ろの席に座る、会話をした事すらない、いつもオカルト雑誌を読んでいる不思議ちゃんがそう言っていたのを盗み聞きしたのだから間違いはないはずだ。


 すると突然、右足に強烈な横方向からの衝突エネルギーを感知。

 やはり勝手に盗み聞きをしたのが不味かったのだろう。

 流石は不思議ちゃんだ。

 クロノを操って私を攻撃してくるとは、何とも恐ろしい。


「待って。クロノ。忘れてないよ。すぐやるから。」


 いじらしくも遠慮のない無言のアピールを一身に受けつつそう返答する。


 すると言葉が通じたのか、或いはただの飼い主馬鹿か、まるで今までのアピールなど無かったかのように大人しくなる。


 紆余曲折あって結局元鞘に収まった化粧水と乳液を世界一(いつの間に?)かわいい顔にしっかりと補給し、急ぎクロノの王宮のあるリビングへ。


 猫砂の取り換えに飲み水の交換、ロイヤルなダイエットフードをいつも通り丹念に適当に盛り付けをし、振舞う。


 猫砂に紛れるうんちは健康、おしっこもいつも通り、そしてどっちも臭い!

 ペットを飼っていれば、気にならなくなるなんていう話もあるけれど、そんなうまい話はクロノと運命的な出会いをしてから二年、未だに体験できないままだ。


 その考えが伝わってしまったのか、いつもはフードにしか目が無いはずのクロノは、私の顔をちらりと見つめる。

 そのまま見つめ合いを続けるのも悪くはないが、それでは人生の約三割を占める伴侶を裏切った意味が、溶け切ったアイスの如く無価値になってしまう。

 後ろ髪をひかれつつも情熱的な見つめ合いを取りやめ、先ほどから徐々に主張の激しくなってきた、人見知りで時折情緒不安定な竹馬の友である、私の消化器官の欲求を満たすべく台所へ向かう。


 本日の朝食は唐揚げでいいよね?

 駄目です。昨日の夜ごはんの残りがあるでしょ。

 無慈悲な事実を脳内会議で突きつけられ、夢のから揚げ生活は計画霧散、立ち消えとなる。


 朝ごはんは茄子とピーマンのみぞれ煮に、狐がもたらす白いダイヤとみそ汁に納豆。

 うーん。日本人ってお米族じゃなくて大豆族じゃないかな?

 そんなまるで意味のない事を頭の左隅で考えながら、一人での食事はちょっと寂しいなと右隅で考える。


 一人と一匹の暮らしって気楽ではあるけれど、たまに幼子が抱くような気持ちがポコッと沸いてくるときがある。

 もう十六なのにね。


 そうして健康的な朝食を終えた私は、洗い物を未来の私へ何時も通りに着払いで送り付け、誰が買ったかも忘れた年季のある掛け時計からの無言の焦りを一身に受けつつ、制服に着替えるために二階の自室へ戻る。


 いつもはクローゼット横に無気力にぶら下がってる制服であるが、今日は何故か椅子に掛かったままの様子。


「制服君、どうしたの? 朝から椅子といちゃつくなんて積極的だね。」


 昨日の私という、今の私とは断絶した存在のやらかしを無かったことにして責任回避を試みながら制服を手に取り着替え始める。

 しかし、やらかしの責任はいくら無関係であると白を切ろうとも、今の私へキッカリ帰ってくるのだ。


「あ、しわ・・・」


 直す時間も代わりの制服も無いから、今日はもう不戦敗である。


「彼に会わないように、別の道を通ろう・・・」


 日々復活を遂げる宿敵を、本日は完膚なきまでに叩き潰した彼の存在は、ここにきて絶対会ってはならぬ一日限定の怪異へと変貌した。


 鞄を片手に、まるで不帰の戦場に向かう兵士のような気持ちで一階に降り、出迎えたクロノをそのままケージという名の王宮に入れる。


「行ってくるね。」


 いつもの事だが返事は無い。

 よくしゃべる子だったらよかったのにという、飼い主失格な自己中心的な考えが一瞬よぎるも、近所を牛耳る“欠け耳のボス”の“取り巻きその二”くらい五月蠅いのは嫌だなとやはり自己中心的に思いなおす。

 静かな子の方が私には合ってる。


 後ろから、我が愛猫であるクロノの視線を一身に受け玄関へ向かいいざ出陣の時。


 どこかの戦国武将のような事を考えながら靴を履き、恐らく今後八時間は味わう事が出来なくなる故郷の空気を、深呼吸にて全身に取り込む。

 これ以上ないくらいしっかりと堪能してから、ここを超えたらもう戻って来れないという、私の頭じゃ三文芝居レベルにしか再現できない感動超大作のドラマを頭の中で繰り広げ、すっかり私しか通る事のなくなったドアを開ける。

 するとなんという事か。

 全く驚かない事に、今日も変わらぬ量産型の新天地が眼前に開ける。

 それを本日最初の直接攻撃を一億五千万キロ彼方から受けたために、瀕死の重傷を負った両の眼に辛うじて納めながら、ドアを閉め……


 る前に、一人もいない、でも一匹はいる、我が家に向かって朝の定型句そのなんとかを、帰ってくる返事など無いにもかかわらず告げる。


「行ってきます。」


「行ってらっしゃい。」


 おや?クロノがしゃべれるようになったぞ。

 どうやら私には、何かの物語の主人公的な能力が遂に備わったようだ。


 止めて欲しい。

 生徒Aである私には到底荷が重い。

 遥か昔にやったごっこ遊びで、特別な役になりたがった事は真に謝罪するので、今すぐ能力の返品先を教えて欲しい。


 ドアに鍵をかけ、馬鹿みたいな事を真面目に考えつつ振り返った正面の家。


 そこには本日の怪異たる彼がいた。

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