ダンジョンの街の時計屋さん
今でない時、ここでない場所。
しゃらん、とアウセラーレ時計店のドアに取り付けた金属片が涼しい音を立てる。
「いらっしゃいませ」
店員のシノはカウンターの中に座ったまま、視線だけちらりとそちらへ走らせ、抑えた柔らかい声で出迎えの挨拶をした。
客はシノの声には気付かなかったようだった。
初めての客はだいたい同じ反応になる。
左右の壁にびっしりとかけられた大量の時計たちに圧倒されて、子供のようにぽかんとして首を上げ、手前から奥まで、奥から逆側までの天井近くをぐるりと見渡して、次に棚の上を逆回りで眺めて、ぱちぱち目を瞬かせるのだ。
預かり品の懐中時計をメンテナンス中だったシノはモノクル型の拡大鏡を顔からはずし、四秒間ほどの時を待つ。そうして時期を見て、秒針の隙間にすべりこむように慎重に、感動を邪魔しないようそっと問いかけた。
「時計をお探しですか?」
「はっ、はい!」
びくりと肩をすくませ、まだ少年らしさを残す若い青年はこちらを向く。ぴょんと尖った灰色の耳が見えた。あまり詳しくないが犬の系統の獣人だろう。軽めの旅装だが片方の肩がわずかに下がって見えるので、腰に何か武器を提げているようだ。傭兵の風体ではない。旅商人という印象もない。
新人の潜航者。
シノはこの客をそう判断した。
十二の頃から店に立ち、先日十七になった彼女の経験に基づく、それなりに確度の高い推察だ。道具類を片付けてカウンターを出れば、三つ編みにした青みがかった黒髪がその背中でゆらりと振り子の動きをする。近付くと客の青年が頭ひとつ分ほどシノより背が高いのが分かった。
「ダンジョン用ですか?」
「あっ、はっ、はい」
高い声だ。慌てさせてしまった。
「あの、これ全部、時計なんですか」
「時計か、時計の仲間、あとは時計か時の関連の品です」
なるべく正確に答えると、ほおーっというような息を吐いて客はまた店内を見回す。奥の部屋に置いてある大型の水時計が立て続けるちょろちょろとした小さな水音が、彼らの足元、沈黙の隙間を縫うように流れていた。
「これ」
流石ダイバーだ。
腕輪型の持ち運び時計に真っ先に目を止めた。
「ダンジョン潜航者向けのダイバーズウォッチです。時刻表示、カレンダー、魔素量計測の機能があります。お好みに応じてつけられるオプションが多彩なのも魅力ですね。時間計測機能をご希望でしたら隣にあるデザインの異なるモデルになります。魔素の多い環境ならネジ巻きや充填なしで一年以上もちますよ」
「あのっ、『ブレイバーズ』のメンバーが、たしか、こういう時計してた、気が、するようなっ」
「ガルド・ブレイバーズ。ロロの試練の二十階層に挑んでいるパーティーですね」
シノは頷いた。最近評判の良いチームだ。
「同じものかは分かりませんが、彼らがお使いでも不思議ではないと思います。こちらは長い人気のある定番の業界共通モデルです。他の都市でも手に入りやすく、壊れて変えたり修理しても使用感に変化が少なくて、上位クラスになっても継続して愛用されるダイバーの方も多いんです。試練級のダンジョンでも存分に活躍してくれますよ」
「へええ」
ぴくぴくっと耳が動いている。
「かっこいいな。あんまり遅くならないように、ダンジョンでも時間が分かる時計が欲しくて……、これ、すごく良さそうだ」
頭の上ではなく、エルフのように顔の左右に耳が生えているタイプだ。そうっと持ち上げた手の甲には耳と同じく灰色の毛が茂っている。黒い爪は先が丸くしてあって武器にしているわけではなさそうだ。
「いくらぐらいするんですか?」
「二○○レギーです」
キャウンッと、まさに子犬の鳴き声が聞こえた。
ハエ叩きでも叩きつけられたかのような動きで素早く手を引っ込めて、黒い目を潤むほど丸くしておそるおそるシノを見る。
「二○○レギオス、ではなくて」
「レギオスで言えば二○○万レギオスですね」
「ぴっ!」
犬ですらない声になった。小鳥に近い。
レギオスあるいはレギオニーは少額通貨で、銅貨や合金のコインが使われる。二○○レギオスというと安いパンなら四つか五つ買えるぐらいの金額だ。レギーは銀貨以上に相当する高額通貨で、一万レギオスで一レギーとなる。百レギー金貨も存在するが、それより上の桁になると手形や証文などでの取引が多くなる。
「ご心配なく。とても丈夫なものですので、落としたくらいでは壊れません。手に持っていただいても大丈夫ですよ」
「むむむ、無理です、無理!」
「そうですか?」
「はい!」
元気がよろしい。
さっきとは違った風に圧倒された様子で、若い獣人の客はこわごわと周囲を見回し、彼の斜め横の位置をキープしてこぢんまりと控えているエプロン姿のシノにそっと質問する。
「時計って、みんな、同じくらいの値段なんですか……?」
「ミミズの飯からお星様まで、というやつですね。価格も種類も千差万別です。そこの柱時計や置き時計の細工ものは四桁を超えますが、シンプルな壁掛けなどは実用向けのものも多く、三レギーほどのお手頃な時計は場所を選ばず人気です」
「三レギー……三万レギオス……」
魂の抜けそうな呟き。シノは考え込む合間に自分の口元を軽く触れる。
どうやら三レギーでも予算オーバーのようだ。
「あの、やっぱ俺にはまだ早かったみたいです」
「お待ちを」
背を向ける前に呼び止める。
「用途を聞かせていただけませんか? お客様はなんのために時計をお探しなんでしょう」
犬科の黒い目玉がうろたえて彷徨った。
時計屋のシノは、じっとその形の良い顎あたりを見つめて口が開くのを待つ。
ちょろちょろと遠くに水音がしていた。
+ + +
「帰るのが、遅く、なりすぎないようにしたいんです」
午前十時に時計屋を訪れた客人、ルカの要望は、先ほども似たようなことを言っていたように、その一言に尽きた。
俺は――あ、俺はルカって言います。
グンド通りって分かります? ええ、はい、その教会のある。その教会のとこの孤児院が俺の家です。うち、十五までいていいんですけど、俺いま十三歳で。
うえっ、そ、そんな驚きます?
見えない。えっと、いい意味、で? なら、いい、のかな。
へ?
あ、え、これ食っていい?
ほんとに⁉︎ あ、ありがとうございます!
はい。うまいっす。へへ。
じゃなくて。
そんで俺、こないだやっとギルド講習のテストに通って、ダンジョン潜れることになったんです。はい。初級受かりました!
ありがとうございます。こっちもいい匂いで美味しいです。
で、今まで町とか森とか地上での仕事ばっかだったんで、時間で困ることあんまなかったんです。外なら空見ればいいし、町なら鐘が鳴るし。けどダンジョンに入ったら、時間が全然分からなくなっちまって。潜って帰ってきたら真夜中で、俺ほんとにびっくりしました。腹もそんなに減ってなくて、まだ夕方くらいだと思ってたから。
その後も何回潜っても思った時間に出れなくて、買い取りカウンターは閉まってて、道も暗くて……。いや、ていうか、ほんとはそれは別に良くって、困るのはうちの院の奴らが俺が帰るのを待ってて寝ないことなんです。心配してるみたいで。ちっちゃい奴ほどたくさん寝なきゃならんって院長先生だっていつも言ってるのに。だから、なんとかならないかなって、思った、んですけど……。
「お金、全然足りませんでした」
率直にルカは告白して、照れくさげに笑って頭を掻いた。
カウンターの側の椅子に座らせた彼の手に厚手のガラスで出来た素朴なコップを握らせると、シノは抽出の終わった薬草茶をとぷとぷと注ぎ入れる。彼女のおやつ入れから取り出したナツメヤシと塩味のジャーキーはどちらもルカの舌に合ったらしく、遠慮しながらも一つまた一つと口へ運ばれて消えていた。甘いとしょっぱいを繰り返した口にすっきりしたお茶は喜ばしいことだろう。
「ルカはスタミナの系統の恩恵があるのかもしれません」
「え?」
「お腹の空きが遅い、疲れを感じにくい。外と時間感覚が狂うのはそのせいという可能性があります。まだアタックできるのは『始まりの回廊』の三階くらいまででしょう? ダンジョンには時そのものがねじれる場所もありますが、もっと難易度の高いエリアばかりです」
「恩恵……、俺に?」
ルカは黒く艶やかな目をぱちくりと瞬いた。
人は『恩恵』と呼ばれる特殊な個性を持つことがある。四つ葉のクローバーを見つけるのが異様に早いといった冗談のようなものから天候を動かすほど強力なものまで千差万別で、死ぬまで恩恵を持たない者も多い一方、一人で複数の恩恵を持つ者もいる。
「ダンジョンのような魔素の高い場所でだけ恩恵が表に出て感じられる人は少なくないそうです。違う恩恵かもしれませんが、一度検査を受けてもいいかもしれませんね」
シノの経験上、ルカのようにダンジョン内での違和感を訴える客はなんらかの恩恵を持っていることが多い。
自分もお茶を一杯飲んでカウンターを離れ、おしゃべりを継続しながら、シノはあまり目立たない低い位置の棚をごそごそ漁っていた。斜めになったプライスカードの向きを直して体を起こす。
「ルカは『ダンジョンに入っても外の時刻帯が知りたい』ということで良いですか。街にある孤児院が昼なのか夜なのかが分かればよくて、細かい正確な時刻や、潜りはじめてから何分経ったかといった情報はそこまで大切ではない。そうですね」
「う、うん。じゃなくて、はい」
「ではこれ、持ってみてください」
ころんとシノの手のひらから現れたのは、ぶどうの実ほどの丸い石が編んだ紐で包まれたブローチのようなものだった。石は乳白色で特徴がなく、そのあたりの岩場で拾えそうなものだ。
言われた通りに手の中に受け取って、どうすれば良いのかとルカはシノの顔を伺う。
「優しく握って、少し待ちます」
「はあ」
従うしかない。
「あれ?」
十秒ほどしてルカが気付いた。
「黄色っぽくなった……?」
「朝の色です。もう二時間もすればお昼ですね」
「朝の色?」
「その石はサンドロップとか日時計石とか呼ばれていまして、魔素を吸うと太陽の高さに応じて色が変化するんです。はい、カラーチャート」
薄い木の板にグラデーションの塗料を塗った簡単な色見本を渡す。
色の変化は単純で、真夜中に向かってオレンジ色に濃くなっていき、正午――正確には南中なのだが説明し始めるとかえって客を混乱させるので普段はそこに触れることはない――に向かって白く薄くなる。
「うーん……ん、あっ?」
何度も石と見本を見比べて、はっとルカは目を大きくした。耳がピンと縦に立つ。
「この石がこの色してたらお昼、ってことです……!?」
黒い爪の先で南中時刻の白い表示を指し示し、ルカはシノに確認した。シノは頷いて応える。
「昼間は少し黄色に変わるかなというかすかな変化ですが、夕方が近付いてくるとはっきり色が分かるようになります。日没あたりの色を覚えておくといいと思いますよ」
ルカの口が両方の牙が見えるくらい横に大きく広がり、ぶわっと耳の毛に波が渡ったのが見てとれた。
ここまで喜んでもらえるとこちらも嬉しくなる。
「あの、これ、時間分かりますね!」
「はい」
「値段、高いですか」
「千五○○レギオスです」
買える!と思ったのが目のきらめきで分かる。
「カラーチャートは別売で三○○レギオスです。しばらく地上の室内などで使っていると慣れますので、買わない方も多いです。首かけにしたりベルトや鞄に繋ぐための紐が必要でしたらそれも別にお売りできますが、お手持ちのものでも良いと思います。それから、お買い上げいただけるようでしたら注意がいくつかあります」
「注意ですか? はい、お願いします」
「まず、潜るダンジョンによっては太陽との連動が失われてしまって役に立たなくなることがあります。初心者のうちは大丈夫だと思いますが、ルカが成長して色々なダンジョンに潜れるようになるとそういう場所にも出会うと思います。
次に、この街やこの国以外での動作が確実かは分かりません。原理として緯度で変化が起こるタイプの道具ではありませんが、保証はできかねます。
それから、サンドロップの弱いところとして、午前と午後の区別がつかないことがあります。夜明けの時間と日没の時間の色が同じで、何日かダンジョンに潜っていると、とっさには、今から夜になるのか昼になるのか判別できません」
「あ……」
言われてルカは色見本を見直す。
「時々見ていれば前に見た時よりも白っぽくなったか色が濃くなったかは分かるので、そこで判断するのですが」
シノは言葉を途中で濁し、少し考えてから、自分の首にかかった鎖を引っ張って胸元からペンダントトップを引き出した。古風な鍵をかたどった飾りが時計屋の静かな空気にさらされる。
「今回は、初回限定サービスということで」
「え?」
彼女が鍵のふちをするりと人差し指でなぞると、蛍にも似た小さな光がその指先に灯る。ちょうどマッチ箱をこするような流れだ。
ルカに指示して日時計石を差し出させて、シノはその光る指でちょんと石に触れた。
「起動」
呪文がひとつ。
ささやかな呪文とささやかな光にふさわしく、起きた変化もささやかだった。
丸い石の胴回りとでも言うか、真ん中の部分に赤道状に帯が一本現れた。それだけである。
「その帯の部分は色が変化せず、一日に二度、正午と真夜中にリセットします。昼の十二時からは白いラインが固定になり、夜中の十二時を過ぎるとオレンジ色のラインが固定になります。つまり、オレンジ色の線が見えている時は午前中、白い線が見えている時は午後になります」
「え、あ、う、うん?」
ルカの頭の上に飛び交う疑問符が見えるようだった。説明だけだとややこしいのだが、本当のところはそんなに難しい話ではない。
「その一、石を握ると時刻によって色が変わる。
その二、石の色は、太陽が上にあるほど白、夜中ほどオレンジ。
その三、中央の線がオレンジ色なら未明から朝、白なら午後です」
端的に繰り返すとルカは理解が追いつかない顔ながらこっくりと頷いた。
この後、半日でもこの道具を持って行動すればルカにもシノの言いたいことはすぐにつかめるはずだ。実際に見るのが一番手っ取り早い。
真昼を過ぎれば、午後には白い帯を残して周りの石の色が染まっていく。
朝になればオレンジ色の帯がくっきり見えるようになる。
そうすれば基準になる帯の色と周りの色を比較して直感的に時刻が読めるようになる。慣れれば簡単だし慣れるまでもほとんど日数が要らない。
この細工ひとつでサンドロップの太陽高度指示器はぐっと使い勝手が良くなるのだ。これはシノがこの国で最初に始めたアイデアなので、ついついにんまり自慢げな顔になってしまう。
「では、いかがでしょう」
「え?」
「こちらの商品、お買い求めになりますか?」
はっと獣人は目を開き、ぴくぴくっと耳を尖らせ、両手で大切にサンドロップの道具を捧げ持ち、それから、満点はなまるの素晴らしい笑顔で大きく頷いた。
「はい、これ、ください!」
大陸にいくつかある迷宮都市の中でも、ここアルケト迷宮都市は、職人街の品揃えが多彩で街歩きをするのも意外と面白い。
中心部からは少し離れたところに位置するアウセラーレ時計店は、外から見るとショーウィンドウにいくつか時計が展示されているだけの簡素な佇まいだが、中に一歩足を踏み入れると、店内を埋め尽くす膨大な時計や道具類に圧倒され、それ自体がひとつのダンジョンであったかと見紛うほどだ。
これはそんな店の、とある午前のできごとである。