呪いの家、売って下さい
「え? 遺産?」
それは、大学構内の木陰にあるベンチで涼みながら炭酸飲料を飲んでいた時のことだった。
蝉の声に混じってスマホが鳴り、画面を見ると母からで、出たら開口一番、「あんた遺産を継いだみたいよ」と告げられた。
突然のことに、優真はきょとんとした。
「遺産って、どういうこと?」
「あんた、片瀬のおじさんって覚えてる? 近所に住んでた」
「……洋一おじさん?」
「そうそう。おじさんがね、先月亡くなって、あんたに遺産を遺してくれたみたいなのよ」
母によると、おじさんの顧問弁護士を名乗る人から電話があって、その旨を告げられたらしい。
「それで、直接あんたに連絡したいって言われたんだけど、連絡先教えてもいいかしら」
「え? あ、うん」
「話した感じ信用できそうだったけど、何かあったらその場で決めずにすぐに相談しなさいね」
「……わかった」
せっかちな母親らしく、すぐに電話が切れた。
周囲に響く蝉の声が、急に大きくなったように感じられる。
喧騒の中、優真はスマホをぼんやり見つめながら、つぶやいた。
「……なんで、俺?」
脳裏に浮かぶのは、自分が幼かったころの記憶だ。
*
小学校1年生の2学期。
父の仕事の都合で、優真は東京都内のマンションから、神奈川県の海沿いにある古い住宅街へ引っ越した。
そこは、細い坂道の両側に古い家々が立ち並ぶ、どこからでも海が見える風光明媚な場所だった。
子ども心ながら、まるで知らない世界に来てしまったみたいだと感じたのを覚えている。
引っ越した時期が中途半端だったことに加え、自身の内向的な性格もあり、彼は新しい学校になかなか馴染めなかった。
楽しそうに通うクラスメイトたちを横目に、寂しく1人で登下校をする日々が続いた。
そんな中で、彼の心の寄りどころになったのは、和美おばさん一家の存在だ。
和美おばさんは、優真の母の従姉で、すぐ近所の大きな洋風の家に住んでいた。
年齢は40歳後半くらいの朗らかな人で、子どもはおらず、夫とゴールデンレトリバーのソラと一緒に暮らしていた。
おばさんは子どもが大好きらしく、優真が遊びに行くと、いつもソラと一緒に笑顔で出迎えてくれた。
「優真君、いらっしゃい。よく来たわね」
「わん! わん!」
毎回こんな風に温かく迎えられ、自分が必要とされている気がして、ホッとした覚えがある。
和美おばさんの家には大きな庭があり、優真はよくソラと遊んだ。
ボール遊びや引っ張りっこ、鬼ごっこなどして思い切り走り回り、遊び疲れた頃に、家からいい香りが漂ってくる。
おばさんは、お菓子作りが得意で、ケーキやクッキーを焼いてくれるのだ。
そして、ソラがおやつの骨を喜んでかじっている横で、美味しいお菓子を食べる訳だが、その時に登場するのが洋一おじさんだ。
洋一おじさんは画家で、不在が多く、家にいるときはいつも2階のアトリエに籠もっていた。
けれど、おばさんが「おやつよ!」と呼ぶと、ゆっくりと1階のリビングへ降りてきて、一緒におやつを食べるのだ。
おじさんは寡黙な人で、水彩風景画を専門としていた。
アトリエを見せてもらったことがあるが、そこには船着き場や海を描いた絵が数多く並んでいた。
会話は多くなかったが、優真のことを気にかけてくれていたようで、趣味の陶芸で、優真用の犬の模様がついた陶器のカップを作ってくれた。
図工の時間に優真が描いた絵を「いい絵だ」とぽつりと褒めてくれたこともある。
こんな感じで、ずっと楽しく遊びに行っていたのだが、優真が小学校3年生の時に、父の仕事の都合で今度は栃木県に引っ越すことになってしまった。
優真は落ち込んだ。
ようやく学校が楽しくなってきた矢先だったし、優しくしてくれたおばさんやソラと離れたくなかったからだ。
しかし、こればかりはどうしようもなく、彼は涙ながらに「絶対にまた遊びに来る」とおばさんたちと約束して、栃木へ向かった。
引っ越してからしばらくしても、彼はおばさんとソラに会いたくて仕方がなかった。
しかし、栃木から神奈川はとても遠く、頻繁に行くことはできない。母に連れられて数回遊びに行ったものの、次第に疎遠になってしまった。
そして、受験や新しい生活でいっぱいになって、海沿いの街を思い出すこともほとんどなくなった中学3年生の時、犬のソラと和美おばさんが亡くなったという知らせが届いた。
ソラは老衰で亡くなり、そのすぐ後、おばさんが急に倒れて帰らぬ人となってしまったらしい。
葬式は近い身内だけで執り行われたようで、連絡が来たのは全てが終った後だった。
優真は、ショックを受けた。
自分の中の何かが欠けるような、そんな感覚を覚えた。
またあの家に行きたいと思うものの、受験や新しい生活に押し流されて後回しになってしまう。
そして、高校を卒業し、家を出て東京の大学に通い始めて4年目。
大学院試験に向けて勉強をしようと大学に来たこの日、洋一おじさんの訃報と遺産の連絡を受けた、という次第だ。
*
優真は、木陰のベンチからぼんやりと空を見上げた。
夏らしい澄み切った青がどこまでも広がっている。
(そういえば、あの海沿いの街も天気が良い日が多かったな)
この日は夕方まで図書館で勉強する予定だったが、そんな気にもなれず、優真は蝉がうるさいほど鳴く中、ひとり暮らしの狭いアパートへと帰っていった。
◇ ◇ ◇
洋一おじさんが亡くなったという連絡を受けてから数日後。
一人暮らしをする優真の家に、おじさんの顧問弁護士の西川という人物から書面が届いた。
書面には簡単な挨拶と、遺産の内容が記されていた。
『神奈川県〇〇市××町3丁目28 片瀬邸』
「……え?」
優真は思わず大きく目を見開いた。
何かの間違いではないかと、何度も見返したり、ネットで住所を調べてみても、それは紛れもなく優真が遊びに行っていたあの家だった。
書面には、他にも、まとまった額のお金が記されている。
優真は思わず頭を抱えた。
「なんで、俺に……?」
はっきり言ってしまえば、自分は洋一おじさんにとって、赤の他人だ。
小さいころに3年ほど遊びに行っていたくらいで、もう12年も会っていないし、連絡すらとっていない。
「なんでだ……?」
いくら考えても答えが出ない。
だから、この翌日に弁護士の西川から電話があった時、優真は思わず尋ねてしまった。
「あの、何かの間違えじゃないでしょうか」
もらう理由が思い当たらないと言うと、電話の向こうから、落ち着いた若い男性の声が返って来た。
「いえ、間違いではありません。確かに“雨宮優真”様宛のものです」
「あの、理由は?」
「そこについては特におっしゃっておられませんでした」
「そうですか……」
何とも不可解なものの、分からないものは聞いても仕方ないため、優真は言葉を飲み込んだ。
西川の話では、おじさんは2年ほど前に入院して、そのまま亡くなったらしい。
家は2年前のままの状態で、今後、家の引き渡しや色々な手続きが必要になるらしい。
「一度片瀬邸に来ていただけませんか。その時に色々説明させていただきます」
そう言われ、優真はためらった。
誰もいない片瀬邸に行くことに、ほんの少し躊躇いを覚える。
しかし、彼はすぐにうなずいた。
「わかりました、伺います」
そして、大学院試験が終わる翌月に行くと約束すると、メールアドレスを教えて電話を切った。
◇ ◇ ◇
約1か月後。
西川との約束の日、優真は遅めの朝食を済ませたあとに家を出た。
曇った空と色付き始めた街路樹をながめながら最寄り駅まで歩き、そこから電車を乗り継いで東海道線に乗る。
普段は込み合う東海道線も、平日の昼間のせいか車内は閑散としている。
彼は、一番端の座席に腰を下ろすと、スマホを取り出した。
1週間ほど前に西川から届いたメールを確認する。
ちなみに、今日は片瀬邸の最寄り駅近くの喫茶店で待ち合わせの予定だ。
もともと西川と2人で会うつもりだったが、1週間ほど前に「会いたいと言っている人物がいる」というメールが届いた。
"小林不動産"の小林という男性で、片瀬邸を買いたいと言っているらしい。
西川によれば、この街は過疎が進んで空き家が増えているため、家を売るのも一苦労な状況だという。
もし売却を考えるなら、すでに買い手がいるのは悪くない話だと説明された。
さらに、西川は小林不動産についても調べてくれたようで、正式な届け出をしており、東京都に実店舗を構えるちゃんとした不動産会社だということだった。
このメールを見て、優真は戸惑った。
まさか家の売買の話が出るとは思いもしなかったからだ。
しかし、自分が住んだり管理したりするイメージも浮かばなかったことから、売るという選択肢も視野に入れて、とりあえず会うことに決めた。
西川とは13時半に待ち合わせをし、不動産屋とは14時半から会うことになっている。
(一体どんな感じになるんだろうな)
そんなことを思いながら、優真は顔を上げた。
気付けば、高層ビルや家が立ち並ぶ風景から、緑生い茂る自然豊かな風景へと変わっている。
電車のガタンゴトンという音を聞きながら、窓の外をぼんやりとながめていると、曇った空の下に、やや灰色がかった海が見えてきた。
(この風景、見覚えがある気がする)
そんなことを考えているうちに、電車が最寄り駅に到着した。
優真は慌てて立ち上がると、ホームに降り立った。
潮の香りのする風が頬をくすぐる。
彼は目を細めて周囲を見回すと、思わず、ほう、と息をついた。
(……懐かしいな)
そこには12年前と変わらぬ風景が広がっていた。
目の前は海で、振り返ると山がある。
山肌には、かつて自分が住んでいた住宅街が張り付くように並んでいるのが見えた。
(こうやってみると、結構な山の上に建っていたんだな)
ホームを歩きながら、胸の奥から、何か懐かしい痛みのようなものがこみ上げてくるのを感じる。
駅の改札を出ると、目の前には見慣れたロータリーが広がっていた。
駅周辺にはほとんど人影がなく、1軒のレトロな雰囲気の喫茶店が静かに佇んでいる。
(そういえば、母さんと1度お茶を飲んだっけ)
そんなことを思い出しながら店の扉を開けると、カランカラン、という小気味よい音が鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
中年の女性が愛想よく声を掛けてくれる。
優真は軽く頭を下げると、レトロな店内を見渡した。
奥の席に座っていた紺色のスーツの男性が立ち上がる。
「雨宮さんですね、初めまして、西川です」
「はじめまして、こちらこそよろしくお願いします」
年齢は30代くらいの真面目そうな眼鏡の男性で、胸には弁護士のバッヂが光っている。
渡された名刺を見ると、「西川法律事務所」と書いてあり、住所は隣りの駅だった。
「隣の駅に事務所があるんですか?」
「はい、私はこのあたりの出身なんです」
西川によると、どうやら西川の父と洋一おじさんが知人で、その縁で西川に顧問弁護士を依頼したらしい。
その後、優真は、懐かしい味がするアイスコーヒーを飲みながら、西川の説明に耳を傾けた。
西川は頭の良い人のようで、おじさんが残した遺産の総額が基礎控除内に収まっているため相続税がかからないことや、相続しない選択ができることなどを教えてくれた。
おじさんが生前に依頼してくれたようで、相続をした場合に発生する手続きなどついても色々とサポートしてくれるらしい。
話を聞きながら、優真は少しホッとした。
何かあったら西川に相談できるのは心強い。
そして、大体の説明を聞き終えた、そのとき。
カランカラン
店のドアベルが鳴った。
優真が顔を上げると、そこには少し奇妙な感じのする2人が立っていた。
1人はポロシャツにジャケットを羽織った、小柄な中年男性。
もう1人は、長めの黒髪に色眼鏡をかけた男で、真っ黒な長袖詰襟風のスーツを着ている。
小柄な中年男性は、奥の席に座る西川を見ると、笑顔で近づいてきた。
「こんにちは、西川さん! いやいや、お待たせしましたね! あ、そちらが雨宮様ですか? どうもはじめまして、私、小林不動産の小林と申します! 遠い所からわざわざご苦労様ですなあ!」
中年男性が、ニコニコと強引にしゃべりながら、優真に名刺を差し出す。
圧倒されたように受け取って見ると、そこには東京都の住所が書いてあった。
(……この人たち、わざわざ東京から来たってことだよな)
今更ながら、なぜ東京の不動産屋が? という疑問が浮かぶ。
西川が苦笑いしながらしゃべる小林を制した。
「小林さん、そちらの方を紹介して頂いてもよろしいですか?」
「あ、そうでしたな! 私としたことが!」
小林に促され、色眼鏡の男性が優真と西川に名刺を差し出すと、小さな声で言った。
「……私こういう者です」
名刺は真っ黒で、白抜きの字でこんなことが書いてあった。
『超常現象研究家 逢坂しぐれ』
優真は無言になった。
本人も怪しいが、名刺はもっと怪しい。
西川が、やや顔を引きつらせた。
「逢坂さんが今日いらした理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「いやあね、こちらの逢坂さんが片瀬邸を買いたいと言われておりましたね。今日話し合いをするといったら、ぜひ熱意を伝えたいから来たいとおっしゃいましたねえ」
ニコニコしながら話す小林を、優真は驚きの目で見た。
買いたい人がいると聞いていたが、まさかこんな怪しい人だったとは!
西川もこれには予想外らしく、冷静ながらもやや険しい顔をする。
小林が笑顔で優真を見た。
「せっかくここまで来たのですから、とりあえず話だけでも聞いてもらえませんか」
「……はい、わかりました」
4人が席に座ると、逢坂が低く抑揚のない声でしゃべりだした。
「……私は超常現象の研究を生業としておりまして、仕事の一環としてそういった家を購入研究しております」
逢坂によると、片瀬邸はネット掲示板で有名な超常現象スポットとして紹介されており、その噂を聞きつけた彼はここまで足を運んだらしい。
「見た瞬間、とても感動しました。これは素晴らしい物件である、と」
優真は困惑の目で逢坂を見つめた。
意味が分からず、「調べてもいいですか」と断って、スマホを取り出す。
そして、教えられた超常現象掲示板を見ると、そこには片瀬邸らしき書き込みが多数あった。
『画家が狂ったように絵を描き続けて亡くなった家』
『空き家なのに夜な夜な音がして、人の気配がする』
『神奈川県有数の心霊スポット』
優真は眉をしかめた。
まさかこんなことになっているとは思わなかったという驚きと同時に怒りが湧いてくる。
そんな優真の様子など意にも介さず、逢坂がボソボソとしゃべり続けた。
どうやら、彼は本気で片瀬邸を手に入れたいらしい。
途中で西川が、購入後の用途を聞くと、きちんと保全して超常現象の研究所として有料公開したいという答えが返ってきた。
家の中も手を付けない状態で譲って欲しいようで、中身も含めてお金をきっちり払うつもりらしい。
聞いていて、優真は顔を強張らせた。
想いでの家に対する酷い扱いに、非常に不快な気分になる。
(こんな風に売りたくない)
そう思って、断ろうと口を開きかける優真を見て、小林が笑顔で話し始めた。
この地域の空き家はほとんど売れないことや、10年経っても買い手がつかない家もざらにあることを話す。
「学生でいらっしゃるのでしょう? 10年分の固定資産税って結構な金額ですよ。家の管理っていうのも古い家だと修繕やらなんやら大変ですしねえ」
「逢坂さんは、家を取り壊したりせずにそのままきちんと管理・保全したいとのご意向です。決して悪い話ではないと思いますよ」
そう言われると、優真の中には迷いが生じた。
売れなかったらどうなるのだろう、自分で管理できるのだろうか、お金を持ち出す必要があるのだろうか、など不安な気持ちになる。
黙り込む優真を見て、西川が提案した。
「とりあえず、家に行ってみませんか? 実物を見ないと雨宮さんも判断できませんよね」
「え、ええ、そうですね」
店を出る時、小林が自分がお金を払うと言って少し揉めたものの、それぞれお金を払って店を出た。
小林と逢坂は付いて来たいということで、4人で家に向かう。
優真の横を歩いていた西川が申し訳なさそうに囁いた。
「すみません、まさかああいった方が買いたいと言っているとは思わなくて」
てっきり古い洋館に興味のある人が欲しがっていると思ったらしい。
優真は、後ろを歩く2人をチラリと見ながら苦笑いした。
きっと西川にはうまく言ったのだろうなと思う。
「とりあえず、雨宮さんが売りたくなければ売らなくて良いので。2人がしつこいようだったら、私の方でも考えがありますので」
「はい、ありがとうございます」
弁護士の西川が一緒で良かったと思いながら、優真は周囲を見回した。
坂を上るにつれ、以前遊んだ公園や、よくお使いに行った小さな商店など、懐かしい光景が目に飛び込んできて、荒れた心が少しずつ静かになっていく。
そして、坂を上がってしばらくすると、大きな洋館が姿を現した。
漆喰の塀に囲まれており、洋風の三角屋根が特徴的な窓が多い家で、見上げた窓はどこもカーテンは固く閉じられている。
庭木は家を包み込むように生い茂っており、長く手入れされていないのが見て取れた。
優真は目を細めた。
昔の楽しかった記憶が蘇るのと同時に、今の荒れた状況に胸が締め付けられるような感覚を覚える。
優真の背のほどの高さがある木門の前に到着すると、西川が鞄から古い鍵と新しい鍵の2つ取り出し、順番に優真に渡した。
「こちらの古い方が門の鍵で、新しい方が家の鍵になります」
洋一おじさんが入院のため家を離れる際、家の鍵を最新式のものに変えていったらしい。
優真が門を開けようとすると、逢坂がそわそわし始めた。
熱っぽい目で家を食い入るように見つめ、入りたそうにしている。
優真は強い嫌悪感を覚えた。
思い出が詰まった家を好奇の目で見つめる逢坂に不快さを感じる。
西川が逢坂に向かってキッパリと言い放った。
「まずは相続人に中を確認していただきます」
「それはそうですが、相続人ご本人が良いと言えば問題ないですよね?」
ニコニコしながらそう言う小林に、優真は静かに首を横に振った。
「すみませんけど、まずは俺1人で見てこようと思います」
そして、一緒に来るという西川に、小声で「2人が怪しいことをしないか見ていて下さい」と頼むと、西川から懐中電灯を借り、門の鍵を開けた。
キィィィ
軋む音と共に、門がゆっくりと開く。
その先には、荒れ果てた庭が広がっている。
そして、優真が一歩踏み込んだ、そのとき。
ピシッ……
どこからか、何かが割れるような鈍い音がした。
思わず足を止める優真の後ろで、逢坂がつぶやいた。
「……ラップ音ですね」
「ラップ音?」
訝しげな顔をする西川に、逢坂が早口で説明した。
「ラップ音とは、主に心霊現象や超常現象と関連付けられて語られる「音」の一種です。つまりこれは――」
逢坂の低く囁くような声を聞きながら、優真は言いようのない苛立ちを感じた。
喋り続ける逢坂を遮るように、「では、15分ほど見てきます」と西川に断って、門を閉める。
そして、閉じられた空間に1人になり、溜まった怒りを吐き出すように息をついた。
「……何なんだよ、あの人たち」
感じたことのない怒りを覚えながら、優真は深呼吸した。
気持ちを何とか切り替えると、家の扉に向かって歩き始める。
ふと横を見ると、伸びた庭木や雑草の間に、古くなった天使の像が置いてあるのが見えた。
「懐かしいな……」
和美おばさんの趣味で、庭にたくさんこういった天使の像や小人の像が飾られていたことを思い出す。
優真は家の扉の前に立った。
扉は変わらないが、鍵の部分だけ最新式になっており、鍵穴が2つになっている。
優真は複雑そうな鍵を取り出すと、2つの鍵を開けた。
軽く息を吐くと、扉をそっと開ける。
キィィ、という軋むような音がして、扉がゆっくりと開き、そこには薄暗い玄関だった。
長らく閉め切られていたのか、淀んだ空気の匂いがする。
「……お邪魔します」
優真は、靴を脱いで上がり込んだ。
小さい頃と変わらない場所に置いてあるスリッパを見つけ、いつも和美おばさんが出してくれたなと思い出しながら、それを自分で出してそっと履く。
家の中は、カーテンが閉められてはいるものの、うすぼんやりと明るく、懐中電灯なしでも歩けるギリギリの明るさがあった。
優真は懐中電灯を消して家に上がり込んだ。
角を曲がって長く続く廊下に出て、彼は思わずあっと声を上げた。
廊下の足元の壁には、たくさんの絵が立てかけられていた。
置き場がなくなって置かれているような印象だ。
優真は立ち止まって、それらの絵をながめた。
全て母子を描いた絵で、庭や海、あらゆるところで楽しそうに遊んでいる。
「……これ、おじさんが描いたのかな」
優真は意外に思った。
おじさんは風景画の専門家だと思っていたが、どうやら人物画も描いていたらしい。
そして、もっとよく見ようと、懐中電灯でその絵を照らした瞬間、思わず息をのんだ。
「和美おばさん……?」
絵に描かれている女性はどれも、記憶の中にいる和美おばさんよりもずっと若いおばさんの姿だった。
もしかして、とその横にいる犬を見て、優真は思わず口角を上げた。
「はは……、ソラだ」
茶色のもふもふした毛並みやキラキラした黒い瞳を思い出し、目を潤ませる。
そして、子どもは一体誰だろう、もしかして自分かもしれない、と思いながら懐中電灯で照らし、彼は首をかしげた。
「……顔が、ない?」
後ろや横を向いていたり、陰になっていたり、子どもの顔を描いてあるものがないのだ。
不気味さを感じながらも、そういうテーマの絵なのかもしれないと考える。
そして、何となく薄気味悪くなって絵から離れると、迷った末に2階につながる階段を上がり始めた。
本当は1階のリビングに行こうと思ったのだが、みんなで楽しくお菓子を食べたビングが今どうなっているのか見るのが怖かったからだ。
そして、2階に上がると、そこはぼんやりと明るかった。天窓から差し込む光が、おじさんのアトリエだった部屋の扉を静かに照らしている。
(ここは変わってないな)
脳裏に浮かぶのは、小さい頃に見たおじさんのアトリエの様子だ。
大きな窓のついた明るい部屋で、窓の向こうには青い海が見えるのだ。
彼は懐かしい気持ちでドアノブに手を添えた。
ゆっくりと回して扉を開けて――、彼は思わず息を飲んだ。
「こ、これは……」
カーテンが閉じられた部屋は薄暗く、部屋の中にはおびただしい数の絵が並んでいた。
風景画もあるが、それより圧倒的に多いのは、廊下に並べられていたような母子の絵だ。
どの子どもにも顔がなく、うち数枚の子どもの顔には、明らかに乱暴に塗りつぶされたような跡があった。
「……っ!」
優真の全身に冷たい汗が滲んだ。
同じ絵の多さと、子どもの顔が塗りつぶされていることに狂気性を感じる。
そして、後ずさりしようとした瞬間——
ピシッ……。ピシッ……
息の詰まるような静寂の中、どこからか鈍い音が響いた。
部屋全体がじわじわと息をし始めたかのような、鈍い圧迫感を覚えると同時に、1階で何かが動くような気配を感じる。
「……っ!」
優真は、たまらず窓に飛びついた。
カーテンと窓を勢いよく開けると、外の光と冷たい空気が部屋に流れ込み、重苦しい空気が一気に薄れる。
「はあ、はあ、はあ……」
窓辺に寄りかかりながら、優真は荒い息を整えた。
汗をぬぐいながら、古い家だからきっとあちこちガタがきているのだろう、と自分に言い聞かせる。
外の光に照らされた絵に目をやると、それはごく普通の風景画や母子の絵だった。
子どもの顔が描かれていないことを除けば、どれも楽しそうな普通の絵に見える。
「……暗いから妙な気持ちになったんだな」
優真は、ホッとしながら窓を閉めた。
向かいの家の窓を見ながら、そういえば、母が「和美おばさんの隣の家の奥さんはおしゃべり」と言っていたなと思い出す。
(もしかすると、ここで絵を描いている洋一おじさんを見た隣のおばさんが、面白おかしくペラペラしゃべって変な噂が立ったのかもしれないな)
彼は呼吸を整えながら、厳重にカーテンを閉めると部屋を出た。
隣の部屋の前に立ち、確かここは物置きだったな、と思い出しながらドアノブに手を掛ける。
そして、何も考えずに扉を開き、彼は大きく息を飲んだ。
「な、なんだこれ……」
そこは薄暗い和室で、おびただしい数のスケッチブックや紙が足の踏み場もないほど積まれていた。
画材が散らばり、壁に貼られている何かを書きかけた絵には、絶望したように大きく赤で×印が描かれている。
洋一おじさんの悲しみや怒り、絶望を無言で体現した部屋。そんな印象だ。
優真は、たまらなくなって扉を閉めた。
下の方から聞こえてくる、ピシッ……、ピシッ、という音を聞きながら、思わずしゃがみ込む。
どんどん手が冷たくなるのを感じながら、彼は小さくつぶやいた。
「……まさか、本当に出るのか?」
浅い呼吸をしながら、ふと顔を上げると、そこには犬用のマットと毛布が置いてあった。
そういえば、ソラが2階のここで昼寝をしていたことを思い出す。
「ソラ……」
茶色のモフモフした毛並みを思い出しながら、優真は息を大きく吐いた。
例え、おばさんやおじさん、ソラの霊が出たとしても、悪いことは絶対にしないだろうと思い直す。
「そうだよ、あの3人が悪いことなんてするはずないじゃないか」
優真はよろけながら、なんとか立ち上がった。
再び汗をぬぐうと、「いくぞ」と小さく気合を入れながら、階段を降りる。
先ほどより少し暗くなった廊下を歩き、台所に入った。
薄暗い台所は雑然としており、いつも和美おばさんが綺麗にしていた調理台は、今ではすっかり埃をかぶっており、物が雑然と積み重なっている。
「……おじさん、1人じゃ片付けられなかったんだな」
ふと奥を見ると、壁に古びたエプロンが3枚掛けられていた。
2枚はおばさんが好きな花柄、そして1枚は子ども向けキャラクター柄だ。
優真の目が潤んだ。
そのキャラクター柄のエプロンが、母と一緒に選んでプレゼントしたものだったことを思い出す。
「……ははっ、流行っていたからって、大人の女性にキャラクターものはないよなあ」
微かに笑いながら、ふと横を見ると、いつもソラがご飯をもらっていた場所に、埃をかぶったソラのお皿がぽつんと置かれていた。
その横には、ソラが好物だった缶詰が供えるように並べられている。
優真は涙を拭った。
こんな優しい人たちが悪い霊になるはずがない、と思う。
そして、勇気を出してリビングの扉を開けると、そこには薄暗くて雑然とした空間が広がっていた。
きれいに整理整頓されていたリビングには物が溢れ、生活の痕跡が残っている。
おじさんは、恐らくこの部屋で長い時間を過ごしていたのだろう。
ふと視線を向けると、壁際には1枚の大きな絵が立てかけられていた。
絵は若々しい和美おばさんが小さな子どもを抱えて笑っており、もう1人の子どもが犬と楽しそうに遊んでいる。
「……なんか、この絵、ちょっと他の絵と雰囲気が違う気がする」
絵に近づいて、犬と遊んでいる子どもの顔をジッと見て、優真は目を見開いた。
「これ、俺だ」
それは、紛れもなく楽しそうに笑う幼い頃の自分の顔だった。
驚きに息を飲みながら、もう1人の子どもの顔に目を移し――、優真の頬を涙が伝った。
「これは……、きっと、おばさんとおじさんの子どもだ」
そこには、2人の面影を宿した可愛らしい男の子がいた。
笑顔で和美おばさんを見つめている。
優真は静かに悟った。
「和美おばさんに子どもを抱かせてあげたかったんだ……おじさんは」
おじさんは、おばさんが死んでからずっと同じ絵を描き続けていたのだろう。
でも子どもの顔だけはどうしても描けずに、何枚も何枚も描き続けて、でも上手くいかなくてヤケになりつつも、諦めずに描いて、ようやくこの絵を完成させた――。
涙を流す優真の背後で、誰かが歩いてくるような気配がした。
足音が近づいてきて、すぐ後ろでピタリと止まる。
優真は涙を袖口でぬぐいながら、そっとつぶやいた。
「大丈夫です。俺がこの家を守ります」
後ろから微かなため息のような音が聞こえた。
張り詰めていた空気がふっと軽くなる。
――その時。優真のスマホが鳴った。
出るとそれは西川さんからで、30分経っても出てこないから心配して掛けて来たらしい。
「……そうか、もうそんなに時間が経ったのか」
あっという間だったような、2,3日ここにずっといたような、不思議な感覚だ。
優真は今出る旨伝えて電話を切ると、絵を見上げた。
「また来ます」
そう言い残して外に出ると、そこには心配そうな顔をした西川と、目をギラギラさせた逢坂と小林が立っていた。
優真は門の鍵をきっちり閉めると、3人に頭を下げた。
「お待たせしてすみません、そんなに時間が経っているとは思わなくて」
そして、逢坂の方を見ると、きっぱりと言った。
「申し訳ありませんが、この家を売るつもりはありません」
逢坂と小林の顔が一気に強張った。
張り詰めた表情で何か言おうと口を開くが、西川がその前に立ちはだかった。
「これから相続手続きを行いますので、お引き取り下さい」
「し、しかし……」
「これ以上の強要は犯罪になりますよ?」
「……」
「それと、この家の変な噂が流れるようでしたら、情報開示請求を行いますので、ご了承下さい」
2人は悔しそうな顔をした。
「手放す際はぜひご連絡ください」
「ぜひお願いしますよ、いずれ手放すことになると思いますし」
などと苦々しげに言いながら立ち去っていく。
彼らの背中が見えなくなると、優真はふっと息を吐いた。
西川と並び、駅へ向かいながら、これからのことを考える。
そして、一駅離れた西川の事務所へ向かい、その場で相続手続きを進めた。
◇ ◇ ◇
その後、優真は大学で卒業論文を書きながら、片瀬邸に通った。
西川さんによると、洋一おじさんが優真に遺してくれたお金は、家の固定資産税や維持管理費の数十年分の金額らしい。
「きっと、俺が困らないように残してくれたんだな」
優真は、おじさんが頼んでいた業者に庭の手入れを依頼し、自分でも家の掃除をする。
そんな日々を積み重ねるうちに、秋が過ぎ、冬が訪れ、そして春が来る。
そして、海から暖かい風が吹く春の午後。
優真は片瀬邸のリビングに座っていた。
リビングはすっかり掃除され、開け放たれた窓からは手入れされた若葉色の庭が見える。
優真は、潮の香りを感じる柔らかい風を頬に感じながら、庭をながめた。
ふと横を見ると、そこには丁寧に額装された2枚の絵が飾られていた。
1枚は、顔のある母子の絵。
もう1枚は、洋一おじさんのアトリエで見つけた、若かりし頃の洋一おじさんの自画像だ。
その下には、ソラのベッドと毛布が置いてある。
それらをながめながら、優真は柔らかく微笑むと、いつか大切な人を連れてきたいなと思いながら、
犬の模様のついたマグカップでゆっくりとお茶を飲んだ。
台所の奥で、キャラクター柄のエプロンが静かに揺れていた――。
この話は、2つの話をモデルに書きました。
1つは、小学校の頃によく行っていた海辺の街にあった、「呪いの館」と呼ばれていた古い洋館。
もう1つは、最近Webで見かけた、「呪いの家」の話です。
呪いのスポットとして有名な2つですが、私は何となく そこに「呪い」ではなく「人の想い」があるのではないかと思い、この話を書くに至りました。
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