2001年4 月
厳冬の寒気が緩み、街路樹の梢に春の気配が漂い始めても、阿山聡の生活は変わることなく続いていた。日々の営みは、まるで精密な時計の針のように、規則正しく刻まれていく。オフィスを後にした聡は、まっすぐに自宅へと向かう。そこで毎日聡を待ち受けているのは、英語の教材と限られた時間との静かな戦いだった。
六畳一間のアパートの中で、聡は毎晩机に向かっていた。蛍光灯の白い光が、辞書の頁を照らし出す。窓の外では、街灯の明かりが夜の帳を柔らかく染めている。平日の夜は四時間、週末ともなれば朝から夜まで十時間。その生活は外から見ればあまりにも味気ないものに映るかもしれない。
かつて聡の心を豊かに彩っていた趣味の数々は、今では遠い記憶となっていた。山々でのキャンプで見上げた星空、初夏の渓流で感じた水しぶきの清々しさ、気晴らしに弾いていたキーボードの旋律、秋の夜長に没頭したゲームの世界、冬の静寂の中で描いた絵画。それらは今、記憶の引き出しにしまわれている。しかし不思議なことに、その喪失感は聡の心を重くすることはなかった。むしろ英語という新しい世界との出会いは、日々の生活に予期せぬ彩りを添えていった。
一語一語の発音を練習し、文法の規則を理解し、新しい表現を覚えていく。それはまるで未知の大地を開拓していくような静かな興奮を伴う作業だった。時には挫折を感じ、時には疲れを覚えても、翌日仕事から帰ると再び机に向かう。その繰り返しが聡の生活のリズムとなっていった。
春風が社内を軽やかに吹き抜ける午後のこと、思いがけない出来事が起こった。何気なく開いていた英語のノートが、正社員の先輩たちの目に留まったのだ。「高卒の派遣社員が何を...」「こんな詰め込み学習は役に立たねぇよ」という嘲笑まじりの言葉が冷たい雨のように降り注いだ。
かつての聡なら、その言葉に深く傷ついたはずだった。しかし今の聡は違った。毎日の学習で培われた静かな自信に溢れている聡に、そうした言葉が響くことはなかった。
そんな日々の中、思いがけない機会が訪れた。TOEICの受験費用が経費で落とせる。それは聡にとって、長い間の学習の成果を試す初めての機会となった。受験会場は隣の県の大学だった。
経費だからという理由で受験を決めたTOEICの試験当日、早朝の高速道路を走る車の中で、聡は穏やかな期待を胸に抱いていた。まだ誰も走っていない道路を、聡の車はひたすら走り続ける。窓の外では、朝もやの中を薄明かりが少しずつ広がっていった。
受験会場となっていた大学のキャンパスは若者たちの活気に満ちていた。葉桜の下を学生たちが軽やかな足取りで行き交う。
試験自体はとても簡単に思えた。しかし聡はぬか喜びはしなかった。今までの経験から「自分はまだ、自分の間違いに気付けるレベルにすら達していない」と思っていたからだ。
試験を終えた後、キャンパス内のベンチで家から持ってきたオニギリを食べながら、聡は周囲の光景を静かに眺めていた。学生たち会話しながら口にしているハンバーガーは、手取り月収11万円の派遣社員の聡には手の届かない贅沢品だった。「楽しそうで、いいな」聡は正直にそう感じた。しかし、その寂しさは長く心に留まることはなかった。自分の選んだ道を歩んでいるという確かな実感が、そうした些細な物足りなさを優しく包み込んでいった。
数週間後、TOEICの結果が届いた。経費申請のためにオフィスでコピーを取っていると、派遣先の部長が「経費で落とせるのは受験費用だけだよ。高速道路の料金はダメ」と言ってきた。聡は一瞬の落胆を味わったが「お前、その点数すごいな!アメリカに行ってみるか」という部長の言葉に、新しい世界が広がるのを感じた。それは、これまで教材の中でしか触れることのなかった海外が、突然現実のものとして目の前に現れたような感覚だった。
後日、最高得点者として派遣先で表彰された時、聡の胸は密かな誇りで満たされた。無数の夜更けと向き合い、数え切れない単語と格闘し、際限のない文章と対峙してきた日々の結晶、初めてのTOEICで945点。地道な努力が思いがけない形で実を結んだ瞬間だった。春の陽光が差し込むオフィスで、聡は初めて自分の選んだ道が間違っていなかったことを確信した。
聡の机の上では、今でも相変わらず英語の教材が開かれている。しかし今は、その一頁一頁が、新しい世界への扉として聡の前に広がっていた。窓の外では、春の風が街路樹を揺らし、新しい季節の訪れを告げている。それは、聡の人生にも、新しい季節が訪れようとしていることの予感でもあった。




