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2000年10 月

 阿山聡(あやまさとし)は、夏の終わりから秋の深まりにかけて、静かに、だが確実に、変わり始めていた。聡の人生は光の届かぬ暗い地下道のようだったが、それでも聡は毎日を懸命に生き延びていた。平日仕事から帰るとひたすら参考書をめくり、単語帳を繰り返し、毎日4時間、週末には10時間もの時間を英語の勉強に費やした。空は日々少しずつ秋の気配を深め空気が乾ききったように澄み渡っていく中、聡の心も間違いなく成長していた。


 寒さが少しずつ聡の肌に触れる頃、聡は自分の成長を実感し始めていた。文法はスムーズに頭に入るようになり、語彙力は飛躍的に増していった。単語の並びが意味を持って聡の中で形を成していった。目に見える形での進歩は聡の心に自信をもたらした。繰り返す度に聡は少しずつ自分を信じることができるようになった。机の上には何度も繰り返した数冊の参考書と、毎日書き綴ったノートが静かに佇んでいた。


 ある日、アメリカからの出張者が聡の職場にやってきた。出張者の送迎などは職場で一番下っ端だった聡の役目だった。最初は英語の会話を交わせる絶好の機会だと喜び勇んでいた。しかし、実際にその会話を始めると、聡の期待とは裏腹に、すぐに壁にぶつかってしまった。英語は思うように伝わらず、アメリカ人は何度も首をかしげては、聡の英語を理解しようと努力する。そのたびに、聡は焦り、苛立ちを覚えた。「アメリカ人は察する能力が低すぎる!」と心の中で叫びながらも、聡は次第に言葉が詰まっていった。まるで冷たい風が、聡の心を締めつけるようだった。


 何度も何度も単語を繰り返し、スペルを一文字ずつ伝えようとする中で、聡はようやく気づいた。自分の発音が何か決定的におかしいかもしれない。アメリカ人同僚の反応からそう推測した。聡はその日思い切って尋ねてみた。「俺の英語の発音はどう?」すると、出張者は少し笑いながら「うーん、VとBの発音が少しね。でも、それ以外はまあ大丈夫だよ」その言葉が聡の胸にすっと浸透した。そうか、やっぱり発音が問題だったのだ。文法や単語を暗記し、文章の構造を理解することにばかり気を取られていたが、肝心の発音を疎かにしていたことに聡はようやく気づいた。


 その瞬間、聡は3ヶ月500時間にもわたる努力が、無駄だったかのように感じた。まるで、寒い風が一気に聡の体を突き刺すように、無力感が広がっていく。発音。英会話に必要なその基盤を、聡は全くと言っていいほど無視していたのだ。


 その後、聡は自分の無力さに打ちひしがれながらも、どうにかして英語の発音を学ばなければならないと決意した。しかし、聡の状況は決して容易ではなかった。ネイティブの英語の発音を聴こうにも、海外ドラマのDVDを買うには金がかかりすぎ、DVDプレイヤーも持っていなかった。そこで聡は本屋で見つけたCD付きの英語の参考書を購入した。本屋の駐車場で車のCDプレイヤーで再生し、車内に響き渡るネイティブの発音に心を躍らせた。その音はまるで、聡が今までに知りえなかった希望のように力強く、正しい方向へと導いてくれるように感じられた。


 だが、その興奮もつかの間、現実が聡を再び突き放した。聡のボロアパートにはCDプレイヤーなどなかった。お金もなかったがどうしても必要だと感じて、車検のために積み立てていた貯金を切り崩し、ようやくCDプレイヤーを手に入れた。しかし貧乏一人暮らしをしていた聡にその出費は痛かった。聡は「CDが擦り切れるまで、何度でも聴くぞ!」と、その怒りを勉強にぶつけることを誓った。聡の心には、風が吹き荒れるような感覚が残り続けていた。聡はその風に抗いながら、何度でも自分を奮い立たせ、再び歩みを進めるのだった。なおCDは無接点なので決して擦り切れることはなかった。

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