表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

2000年6月

 阿山聡が英語の資料をなんとか読めるようになってから、三ヶ月が経過していた。資料を何度も読み解くことで技術的な理解も深まり、業務のスピードは格段に向上した。だがそれにもかかわらず職場での聡に対する評価は一向に変わらなかった。


 日常業務で聡が少しでも英語の表現を間違えれば冷ややかな皮肉や嘲笑が浴びせられた。特に米国本社に送るメールの英語表現については、聡の間違いを先輩たちは何度も繰り返して、聡を笑い者にしていた。ほんの3週間ほどの勉強で、英語の技術資料が読めるようになっただけで、聡の英語は完璧からは程遠い。語彙の選択に迷い、文法に小さな誤りを犯す。それは聡自身が痛いほど理解していた。それでも間違えるたび投げかけられる辛辣な言葉に、聡の心は折れそうだった。


 そんなある日、米国本社からエンジニアが出張でやってきた。米国のエンジニアとの会話は、もちろん英語でなければならない。聡の心は重く暗く沈み、あたかも圧し潰されるような感覚に襲われた。自分が話す英語を、先輩たちがいつものように嘲笑うのではないかという恐怖が、胸の中で膨らみ続けた。それが、聡にとって最も恐れ、最も避けたかった現実だった。普段から威張り散らしている先輩たちが、その日のオフィスでは静けさを保ち続けている、それが聡にとって一層の恐怖を掻き立てた。


 しかし、予想に反して、その日、先輩たちは普段のように威張ることはなかった。聡はその静けさに包まれたまま、先輩たちが米国から来たエンジニアと英語で話す声を耳にした。その瞬間、聡は自分の耳を疑った。先輩たちもまた、英語に長けているわけではないのだ。先輩たちの言葉は、少しよろけるように発せられ、発音もどこかぎこちなく、聡にとっても明らかに不自然に聞こえた。その光景を目の前で見て、聡は深く息を呑んだ。そして何かが聡の内面で音を立てて壊れるのを感じた。


 ああ、そうだったのか。


 聡はようやく理解した。聡の英語を馬鹿にしている先輩たちも、実は大して英語が得意ではなかったのだ。英語ができないことを嘲笑ってくる先輩たちもまた、英語の壁にぶつかり、苦しんでいたのだ。それに気づいた聡はふと少年時代のことを思い出した。かつて野球をしていたころノックすらまともにできない監督が子供たちを怒鳴りつけていた。あの監督の姿が、今、目の前にいる先輩たちと重なった。


 聡ははっきりと理解した。この職場の先輩たちはただ、自分を上に立たせるために他人を貶めているだけだ。そして聡の心に一つの決意が生まれた。この職場で一番英語ができる存在になろうと。それが、聡が唯一持てる武器であり、自分を守るための方法だと信じたからだ。


 その夜、聡は帰宅すると静かに机に向かい、長い間その手を触れることなく放置していた英語の辞書を手に取った。数か月前、たった三週間の勉強で、英語の資料をとりあえず読むことができるようになっただけで満足してしまい、それ以上の努力を怠った自分を、強い羞恥の念を抱えながら振り返っていた。自分の中にあった甘え、そしてそのまま立ち止まってしまった愚かさに、心は重く沈んでいた。辞書の表紙には薄く埃が積もっていた。それを手で払い、聡はページをめくる。ほんの数分前まで机の片隅で埋もれていた辞書が、聡の手の中で輝きを放ち始めていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ