2000年2月
阿山聡が英語の勉強を始めてから一週間が過ぎた。聡は少しずつ英語の資料を読むことができるようになり、アルファベットの羅列は徐々に意味を持ち始めた。何度も辞書を引きながら英語の壁を乗り越える。目に見える変化はごくわずかだが仕事のペースは少しだが明らかに速くなっていた。
職場の先輩たちからは相変わらず冷笑と軽蔑の言葉が投げかけられ続けていた。どんなに努力しても未熟さを指摘される毎日に、聡の心には悔しさと苦しみが募った。だがその苦痛が聡を諦めさせることはなかった。むしろ、さらに深く、自分を超えるために歩み続ける決意を固めさせた。もし今の自分に甘んじてしまえば、永遠にこの壁を越えることはできないと、聡は自らに言い聞かせた。
二週間後、聡の英語力は格段に向上していた。技術系の英文書には決まった表現やパターンが多く、それに気づいた聡は、英語の読み取り速度が飛躍的に速くなった。辞書を引く回数も減り、心の中に小さな自信が芽生え始めた。しかし職場ではその変化に気づく者はいなかった。職場の先輩たちは相変わらず聡の未熟さを笑い、仕事の出来なさを指摘し続けた。聡はそのたびに深い悔しさと自己嫌悪に囚われたが、同時に自分の成長を確かに感じていた。英語を学び続ける中で、少なくとも業務をこなすために最低限必要な英語力を身につけたことには、揺るがぬ実感があった。それは確かな進歩だった。それでも、心のどこかに、まだ何か足りないという思いが残り続けていた。
そして三週間目に入る頃、聡はほとんど辞書を引かずに英語の資料を理解できるようになった。最初は恐ろしいほど難解に感じていたその資料の言葉の流れや構造が自然に入ってくるようになり、もはや英語が聡にとっての障害とは感じられなくなった。最初の頃の苦しみが嘘のように、今ではスムーズに理解できる自分がそこにいた。聡はその成果を実感し、満足感を覚えた。それは確かに一つの大きな成果であり、長い間の努力が報われた瞬間であった。しかし、その満足感こそが、聡を次のステップへ進ませるための衝動を抑えてしまったのだ。英語の勉強を始めた当初の目標は達成された。それは疑いようのない事実だった。しかし、その先に何が待っているのか、聡はまだ理解していなかった。
四週間が過ぎた頃、聡は英語の勉強を完全にやめてしまった。辞書を開くこともなくなり、机に向かう時間は徐々に減少した。聡が持っていた英語に対する情熱は冷めてしまっていた。それは達成感に浸ることの危険を知らず、次の挑戦へと向かう意欲を失ってしまった結果でもあった。
そして勉強を止めることで、聡は職場での自分と改めて向き合うことになった。英語力は確かに向上した。それは聡自身も認めるところだったが、職場ではそれだけでは十分ではなかった。聡はまだ若く、未熟だと見なされ、成長の余地が無限に広がっていることを、改めて痛感させられる日々が続いた。それにどう向き合うべきか、聡には答えが見つからなかった。
知らない土地で一人暮らしをしているという孤独は無言の友のように日々の生活に寄り添い、聡の心の奥深くに根を下ろしていた。職場での毎日は変わることなく続いていった。先輩たちからは相変わらず冷笑が投げかけられ、聡の努力は他人の目には無駄なものとして映ることが多かった。聡がどれだけ苦しんで努力しても、その成果は認められなかった。もしかすると他人からの評価を得ることこそが聡にとっての真の目標だったのかもしれない。変わらぬ日常の中で、聡は何も成し遂げていないような虚無感とともに、今の自分に対する不安と焦りを抱え続けた。
聡は成長の本質に気づいていなかった。英語を学び、職場で評価を得ること、困難を克服することが成長のすべてだと信じていた。しかし、成長とは外的な成果にとどまらない。内面の変化、自己との対話、そして自分を深く理解することが真の成長なのだ。英語の資料が読めるという小さな成功に満足し、自分を超える道を見失った聡は、無意識のうちにその本質に背を向け、日々を無駄にしていた。