1999年11月
阿山聡は日本の外資系企業で派遣社員として働き始めたばかりだ。高卒で、20歳を過ぎてもまだ夢と現実の狭間で足掻いているような年齢だった。周りの同僚はどこか洗練された雰囲気を持ち、聡はその中で浮いているように感じていた。学歴と経験がないだけではなく、実力も技術もまだ半人前。職場にいる正社員の先輩たちからは見下され、その若さを理由に毎日のように厳しくいじめられる。容赦なく積みあがる顧客からの要望と常態化した長時間労働に皆が大きなストレスを抱えている組織で、一番弱い存在の聡はストレス発散の対象だった。
朝、目が覚めるともう出勤時間。目の前の一日のタスクが頭をよぎると、胸が苦しくなる。派遣社員という立場に、何もかもが重く感じられる。しかも、その仕事量は他の社員と変わらない。いや、むしろ、めんどくさい仕事ばかりが降ってくる。先輩たちは何も言わずに、聡に次々と業務を押し付ける。もし失敗すれば、「お前はこんなこともできないのか」と、見下した笑い声が響く。そんな毎日に聡は必死で耐えるしかなかった。
外資系企業特有の空気もまた、聡を圧倒する。英語を使う機会が少しでもあると、すぐに先輩たちから「お前はそんなことも知らないのか」と笑われる。聡は心の中で「どうして俺はこんなにダメなんだろうか」と自問する。しかし答えはすぐには出てこない。技術者としては未熟だし、コミュニケーションスキルも決して高くはない。それでも、昼休みと退勤後の一人で過ごす時間だけは、唯一安堵できるひとときだった。
だが、その「一人の時間」も次第に浸食される。仕事が終わった後にも飲み会で同僚やお客さんに引きずり回される。聡は酒が飲めない。酒を飲まなければ、仲間の輪に入ることすらできない。居場所のない飲み会で帰りが遅くなり、心身ともに疲弊していた聡は趣味を続ける余裕もなくなった。聡の一番好きだったゲームも、久しく触れていない。
毎月、給料は支払われるが、生活は楽にならない。必死に働いているのに、貯金ができないどころか、月末には家賃の支払いに困ることもしばしばだった。自分が必要だと思っていた「生活」を支えるために必要な金額と、実際に稼げる金額とのギャップに、毎月打ちのめされていた。「これならフリーターの時の方が楽だったな…」と、希望したはずの社会人としての生活はすぐに重圧に変わり、聡の肩に重くのしかかっていた。
1999年、日本では社会の不安が高まっていた年でもあった。神奈川県警の不祥事が相次いで発覚し、東海村では核燃料加工会社で臨界事故、6月には過去最低の失業率を記録、そのぼんやりとした不安が社会をまだ駆け巡っていた。政治の混乱、経済の停滞、不安定な世の中に対する不満は、街のあちこちに漂っていた。聡の心にもその重さが染み込んでいく。自分だけがこんなに苦しんでいるのではない、という思いは何度も浮かぶが、それでも「自分の苦しみ」にどう向き合えばいいのか、分からなかった。
仕事が終わり、家に帰ってもテレビをつければまた何かがニュースで騒がれている。聡はその一切に無関心でいたいと思うが、無関心でいることすらできなかった。見えない何かが聡を締めつけている。例えば、トヨタがアメリカ市場に向けた新車を発表し、経済界は「これで日本の景気は上向くかも」と報じているが、聡にとってそのニュースは何の意味も持たない。「世の中が変わっても、自分の生活が変わるけじゃない」という虚無感が胸に広がっていく。目の前の情報が聡の世界には一切意味を持たないように感じていた。
毎日が過ぎていく中で、聡はもう何度もこの状況に耐えられないと思った。しかし、それでも生きるためには、耐えるしかなかった。日々、心は少しずつ擦り減りながら、ただ仕事をこなしていた。そして、仕事の後は深夜遅くに無機質なアパートの部屋に戻る。そこにあるのは、窓の外から静かに響いてくる虫の声と、ただ自分だけがいる現実だ。