6
***
好きな子が好きだと言ってくれた。
それだけで、エーリヒの世界は一変した。
目に映るすべてが輝いて見えて理由もなく楽しくて笑みが止まらなくて。
自分でもちょっと気持ち悪いくらいだった。
「ご機嫌ですね、坊ちゃま」
「まあね」
知らず漏れ出ていた鼻歌に、子供の頃から見知っているベテランのメイドが笑いかけてくる。
それはリネットから告白された翌朝のこと。
自室で身支度を整えつつ、エーリヒはメイドを振り返る。
「ところでガドフリーを知らない? 今朝から見かけないんだけど」
「ああ。なんでも用があるとかで朝一番に出かけていきましたよ。あれが坊ちゃまのおそばを離れるだなんて、珍しいこともあるものですね」
「……そうだね」
ふとよぎった嫌な予感に、エーリヒは真顔に戻った。
ガドフリーは献身的で有能な、素晴らしい従者だった。けれど少し過保護すぎるところもあって──特にそれが顕著なのはリネットに関してだった。『彼女の身分もお考えください』だとか『彼女の幸せを願うなら距離を置くべきです』だとか。エーリヒは何度も釘を刺されていた。
「……ねえ、どこに行ったかわかる?」
「え? いいえ。昼には戻ると言ってましたけど」
昼。リネットの街から帝都まで往復4時間だから、妥当な頃合いだった。エーリヒは鏡を前にしたまま、浅くため息をつく。
大方、交際のことで小言でも伝えに行ったのだろう。昨日
も彼女に『女狐』などひどいことを言っていたし。
(リネットが傷ついてないといいけど)
子供の頃から付き合いのある彼女がそんなヤワな性格じゃないことは知っていても、やはり良い気分はしなかった。
エーリヒはそっと窓の外へ目を向ける。
──それにしても……昨日のリネットも可愛かったな。
告白されたから、という理由もあるのだろうけれど。昨日の幼なじみ──いや今は恋人か──は、いつにも増して可愛らしく見えた。
耳まで顔を真っ赤に染めてまっすぐにエーリヒを見て、想いを伝えてくれた。彼女の膝に置かれていた小刻みに震えていた手を思い出せば、小さく笑みがこぼれる。
大好きで勇敢な彼女。
「ありがとう、リネット……」
告白なんて、どれだけ勇気がいったことだろう。エーリヒだってずっと伝えたくて、だけれど言い出せなかった想い。
でも、これでやっと覚悟が出来た。
身支度を整え終わったエーリヒはやや緊張した面持ちのまま両親のもとへ向かった。交際を認めてもらうために。
自分たちも身分違いの恋を経験していたからだろう。
父も母も驚きはしていたものの関係それ自体を反対されることはなかった。ただ父からは一言「全力で守りなさい」とだけ忠告されて。エーリヒはそれが言うほど容易いことではないと知っていたから、重く、心の深くに受け止めた。
(あとはガドフリーの説得か)
彼が戻ってくるのを待つ間、エーリヒはぼんやりと過去のことを思い出していた。
幼い頃から同じ時を過ごしていたリネット。
子供の頃から彼女に好意を抱いていたのは事実だけれど。割と誰とでもすぐに仲良くなれるエーリヒにとって、はじめ彼女は、たくさんいる【好きな】友人のひとりに過ぎなかった。
それが特別になったのは、数年前のこと──。
リネットに命を救われてからだった。
あれはまだ、十を数えたばかりだったろうか。
ふたりきりで森遊びをしていた。
近くにガドフリーはいたはずだけれど、森の奥まった木々に邪魔されて見えなくなっていたのだと思う。
『うわあああ!』
頭上からぼとりと落ちてきたそれは緑色の蛇で、エーリヒを威嚇してきた。
『下がってエーリヒ』
薬草畑を管理しているリネットにとって虫や蛇は見慣れたものだったらしく。そこらに落ちていた枯れ枝を拾ったリネットはすぐにエーリヒの前に立って蛇を追い払ってくれた。
『あ……、あ』
『大丈夫エーリヒ?』
腰を抜かして座り込んだエーリヒをリネットは心配そうに覗き込んできた。その瞬間の安堵といったらなかった。
『毒蛇だったけど、どこも噛まれてない?』
動けないエーリヒの顔や足や手を確認して、リネットはほっと息をついた。
『びっくりしたわね』
『……うん』
ついで込み上げてきたのは、羞恥だった。
屋敷でも街でも誰の前でも。エーリヒはこんな悲鳴を上げたことはなかったし、無様に座り込んだことだってなかった。
それがひどく恥ずかしく、滑稽に思えてならなくて。
『立てる? ガドフリーさん呼んでこようか?』
『っ……立てるよ』
それは男としてはじめて覚えた、小さな意地だったと思う。
けれどエーリヒの意に反して、足はわなわなと震え、上手く力が入らなかった。何度も立ち上がろうとして、支えにした手がずると土の上を滑る。こんな情けないところ、誰にも見られたくはないのに。
『……エーリヒ、大丈夫?』
『え?』
『やっぱりどこか痛いのね?』
顔を近づけたリネットがそっとエーリヒの頬を撫でた。
そこでやっとエーリヒは自分が泣いていることに気がついた。いっきに身体中の熱があがっていく。
『これは! 別に……っ』
『怖かったわよね』
『怖くなんて』
『もう大丈夫よ』
言われたとたんふわりと香ったのは薬草の匂いだった。エーリヒを抱きしめたリネットが、子供をあやすみたいにぽんぽんと背中を叩いてくる。その温度に、エーリヒはふっと緊張をゆるめた。
『私、虫とか蛇は平気なの。だから私といれば大丈夫よ』
なんて頼りがいのある女の子なんだろう。
でも何故だろう。とても悔しくもあった。
彼女の前ではもっとカッコよく居たいと思った。
それからすぐにガドフリーが駆けつけてきて、エーリヒをおぶって3人で森を出た。
そしてその日の帰り際。リネットが心配そうにエーリヒの手をとってきたことも、しっかりと覚えていた。その、表情も。
『エーリヒ! 蛇が出ても追っ払ってあげるから、また遊びに来てね』
森での頼もしかった顔は消えて。蛇を怖がったエーリヒが二度と遊びに来てくれないのではないかと、リネットはそんなことを心配していた。
『大丈夫。……また来るよ、絶対』
もうあんな無様は見せたくないけれど。
言って微笑めば、リネットはやっと安心してくれたみたいだった。
『うん、待ってるね』
(うん。たぶんあのときからだ──)
リネットが【特別】に見えるようになったのは。
勇敢で臆病でやさしい女の子に、恋をしたのは。
思い出して、エーリヒは息をこぼした。
恋心を自覚したからといって、それが成就するとは限らない。
エーリヒには生まれた時から課せられた貴族の義務があって。屋敷の人々や領地の民のためにも、その責務をおいそれと放り出すことは出来なかった。
そしてもし、リネットを妻に迎えることになったら、彼女にも少なからずその責がついてまわることになるのだ。
容易に想いを伝えることなど、出来るはずもなかった。
でも。
「リネットが勇気を出してくれたんだから、僕も頑張らないとね……」
彼女が言い出さなければ、近いうちにエーリヒの方が我慢できなくなっていただろうけれど。──先を越されてしまった。
と、窓辺で物思いにふけっていたエーリヒのもとへメイドがやってきた。
「坊ちゃま、ガドフリーが戻りましたよ」
「ああ、わかった」
「リネットさんもお見えですよ」
「え?」
「久しぶりにお会い出来て嬉しかったですわ。ほんともう、綺麗になって。恋人はいるのかしら」
「……」
僕だよと喉まで出かかりそうになったのをなんとか堪えて。エーリヒは足早に、ふたりのいるという客間へ向かった。




