18-2
「勝千代殿」
名前を呼ばれて、ふっと我に返った。
年齢にしても小柄な勝千代の足元には、腰を抜かした白塗りの老女。
見開かれたその目の奥に、怯えの色があるのを読み取って、とってつけたように再びにっこりと微笑む。
「滑りやすいのでお気をつけて」
「……っ」
老女はぎくりとした様子で息を詰め、尻もちをついたままじりじりと後ずさった。
あれだけ威勢よく小童とけなし、扇子で打擲までしようとしたのに、今さら何を怯えているのだろう。
「……それぐらいにしてやっておくれ」
奥の方から、低めの女性の声がした。
時刻が時刻なだけに部屋は薄暗く、しかも上座に重たげなすだれが降ろされているので、声の主の姿は見えない。
だが、いかにも秘密の会合がはじまりそうな雰囲気に、ここが目指していた場所には違いないのかもしれないが、想像していたような状況ではない事を察した。
誰も何も言わないし、案内もしてくれないので、勝千代は扇子を腰に戻すと、スタスタと部屋の真ん中まで足を進め、すだれに正対して座った。
直垂の袖をさっと背後に正し、丁寧に一礼。
いろいろな人の所作を観察する機会があってよかった。今の身分だと必須であろう礼儀作法について、誰かに教えてもらったことがないのだ。
はたしてこれが作法として正解かどうかわからないが、寒月に対していた掛川城のお偉いさんたちの態度を手本にしているので、大きくは外さないだろう。
すだれの手前だけでみても、部屋は広く、軽く二十数名が入っても余裕があるぐらいだが、ともされた灯りは少なく、控えている人数もたったの二名だった。
すだれの奥に何人かいるのだろうが、こそこそと話をする気配はするものの、顔を見せる気すらないらしく、とてもではないが客を迎え入れるような雰囲気ではない。
確かにこの部屋に通されたわけだから、ここに連れてくるように命じた者がいるのだろうが、そもそも誰が、何のために招いたのかわからない以上、うかつな言動はできない。
顔を上げたまま黙っていると、根負けしたように、すだれの奥で人が動く気配がした。
「……大きゅうなりはったな」
低めの女性の声が、囁くように言う。
「数えで六つか……早いもんや」
おっとりとした京訛り。やさし気で嫋やかな喋り方だ。
きらきら金箔の襖や、いかにも高級な調度品、すだれを介したその場の雰囲気もあいまって、普通の子供であれば臆していただろう。
「福島勝千代と申します」
しかし勝千代の思った事といえば、京訛りにもいろいろあるのだな、という、一方言に対する感想だけだった。
関西地方のイントネーションなのは確かだが、人によってアクセントの位置が微妙に違うのだ。
奥には高貴な方がいるのだ、と主張しているすだれに向かい、勝千代はまっすぐな視線を向けた。
「書簡を下された方でしょうか」
つまりは、御台さまですか、と単刀直入に聞いたわけだ。
「ご丁寧なお見舞いの品々に礼を申し上げたいと思うておりました。ですが申し訳ございません、実は早急に対処せねばならぬ問題が起こっておりまして」
遠まわしでもなんでもなく、「ゆっくりなんて話してられません」と、かなり不躾な態度をしてみせると、すだれの向こう側で「なんと無礼な」やら「やはり猪武者の」やら、散々老女にいわれた台詞が漏れ聞こえてくる。
「……福島殿のことは聞き及んでおる」
「なるほど? それでは、あなたさまもわたしが若君を騙る偽物だとお思いでしょうか」
方々で、ひゅっと息を飲む声がした。
「父が、御屋形様に刃を向けると本気でお思いに?」
「……人の心は、見た目ではわからぬもんや」
「悪意のある言葉で罵られ、扇子で打擲されれば、相手がどのように思っているかはっきりしますね」
そこで何気なく、腰に差した東雲の扇子に手を伸ばした。
先程から腰骨に要の部分が当たって痛いのだ。
大人用の扇子は幼い勝千代には大きすぎ、差し込む位置によっては座りが悪い。
無意識のうちに、その位置をずらそうと指を添えただけだった。
しかしこういう場面で、懐に手を当てる動きには問題があったらしい。
「ひいいっ、乱心じゃ! 鬼子の童が乱心じゃ!」
御台さまではない、すだれの奥にいた女性の一人が、甲高い声でそう叫んだ。
スパパパパパン! と何枚もの襖が一気に開いた。
どかどかと踏み込んできたのは、ここまで案内してくれた男たちと同じ、薄水色の直垂姿の武士たちだ。
物々しく部屋に押しかけ、抜き身の刀を突き付けてきて……
部屋の中央に鎮座した、ただ腹のあたりに手を当てていただけの童の姿に、あからさまにどうすればいいのかわからない、といった顔をする。
恐らくは廊下に控えていた興津や、刀を突き付けている当の本人たちですら、幼い童へ向けたこの過剰な態度に疑問を覚えていただろう。
そして、子供が泣きだすのではないか、取り乱すのではないか、そうであって当然だとも感じていただろう。
しかし勝千代は、眉ひとつ動かさず、表情のない声で一言。
「おや」
そう呟いて、高い位置で結わえた髪を揺らしながら首を傾けた。
「こういうのを何というのでしたか……」
腹に添えていた手を顎に当て、一見あどけない様相で思案して。
「ああ!」と、たった今思い当たった風に短い笑い声をあげる。
「誅殺?」
その場にいたすべての大人たちが、小さなその唇からこぼれた言葉にぎょっとした。
勝千代は再び真顔に戻り、なおも閉ざされたままのすだれの向こうにまっすぐ目を向ける。
「それとも……謀殺でしょうか」
その場の空気が、一気に冷えた。




