18-1
主殿に入るなり、勝千代は二木と引き離された。奥殿に上がれるような身分ではないから、ということだった。
この男には他にしてもらわなければならない仕事がある。むしろ離しにかかるのが想定よりも遅すぎるぐらいだ。
興津が、勝千代が幼少だという理由で抗議してくれたが、あらかじめ打ち合わせていた二木は黙って一礼して引き下がった。
別れ際、二木は相変わらずの無表情だったが、覗き込んだ目がずいぶんと不安そうに見えた。
大丈夫。興津がついていてくれるから、即座に殺されるという事はないよ。
そういう意味を込めて、にっこり笑って手を振っておく。
……よけいに顔をしかめられてしまった。
冬の冷えた空を見上げて、月の位置を確かめる。ずいぶん時間が押していた。
体感では、日没からおおよそ二時間。思いのほか経過しているのは、この小さな歩幅のせいだ。
普段から抱きかかえられて運ばれることが多いので、四歳児の歩く速度や体力を過信していた。
だが、頃合いだ。
周囲を見知らぬ直垂の武士たちに囲まれ、外回廊を歩いているうちに、遠くから喧騒のようなものが聞こえてくる。
周囲の者たちの中にも騒ぎに気づいた者はいたが、勝千代は足を止めなかった。
「お、お待ちを」
控えめに引き留められたが、すたすたと歩き続ける。
もうかなり疲れて来ていて、少し休みたいところではあるが、ほかならぬ勝千代が遅刻しては本末転倒、何もかもが台無しになりかねない。
奥へ進めば進むほど、人が増えてくる。
武士たちだけではなく、女中や文官たちもいる。
その誰もが、勝千代の顔を見て「ひっ」と息を飲み、慌てたように距離を置く。
お化けじゃないよ。
幽霊じゃないよ。
……いや、やはり「怨霊でござる」と芝居がかった登場をしたほうがよかったか。
渡り廊下を二つほどまたぎ、主殿の奥深く、おそらく突き当りであろう部屋が見えてくる。
豪華な金箔の張られた襖が並び、所々の開け放たれた部分にはすだれが降ろされ、その最奥、回廊の突き当りのT字になったところに、ひときわ豪奢な誂えの建具が並ぶ箇所があった。
どうみても、あそこが目的地だ。
勝千代は、ことさらににこやかに微笑んだ。
あの場所に元凶がいるのか。
勝千代を父もろとも亡き者にしようとした黒幕が。
ああ、駄目だ。冷静でいなければいけないのに、父が地下牢に捕らわれている事を思い出すと、思考が極端な方向に振り切れそうになる。
手前で一応立ち止まり、名乗りをあげる。
当然のように返事がないので、気にせずすだれに手をかけようとすると、それより先に、コントのような白塗りの女性がぬっと顔を出した。
「無作法な童じゃ」
知らない人だよね。そちらこそその言い方は無作法だと思います。
勝千代は、そんな内心など微塵も表情には浮かべず、にっこりと笑顔を浮かべた。
普通の子供なら泣いて怖がるレベルに異様な老女だった。
他人様の年齢、特に女性の年についてとやかく言うのは失礼かと思うが、真っ白に塗りたくられているので逆に皺が目立って、必要以上に年かさに見える。
お歯黒もしているので既婚者だ。
こういう女性と結婚しているって……まったくもって余計なお世話な事を考えながら、天真爛漫な笑みを浮かべる。
「失礼。こちらに通されたのだけれど、返事がなかったもので」
「返事がのうても待つものじゃ!」
京訛りが強い。
「猪武者の子は獣臭そうてかなわぬ」
少なくとも、名乗りもしない老女よりはマシだと思う。
お香だか何だかと髪につけた油と化粧の匂いと、更に老女から漂ってくる、何日も風呂に入ってない者特有のすえた臭い。
はっきりいって、かなり強烈だ。
勝千代はさっと扇子を鼻先に当て、わざとらしく唇に弧を描いた。
「……もう一度名乗ったほうがよろしいでしょうか?」
老女はカッと小さな目を見開き、手に持っていた扇子を振り上げようとした。
いや待て。暴力に至る要素がどこにあった?
そもそも四歳児になにしようとしてくれてるの。
ここは叩かれてあげたほうが有利になるかな、なんてお子様らしくない事を考えていたのだが,勝千代が動くより先に、何故かここまで四方を囲んでいた直垂の武士が老女の腕を止めた。
本人も動いてから驚いた様子で、「申し訳ありません」と言いながら膝をつき、頭を低くして謝意を示している。
老女がぶるぶると怒りに震え、更に扇子を揺り上げようとした時。
「もうよい」
すだれの向こうから、女性のものにしては低い声がした。
「とおしておやり」
「無礼な小童などと会う必要は……」
「では失礼して」
勝千代は、キイキイと怒っている老女の脇をするりと通り抜けた。
主であろう方が「通せ」と言っているのに、行く手を遮るほうがおかしい。
更には、たった四歳の幼い童を、背後から打擲しようとするなどあんまりだろう。
だから扇子はひょいと避けたし、それによって老女がたたらを踏んでこけそうになっても、手は貸さない。
それは勝千代だけの思いではなかったようで、小柄な老女が尻もちをついても誰も助けようとはしなかった。
「大丈夫ですか?」
勝千代は、スマイルゼロ円の満面の笑顔で、老女を見下ろす。
「……こ、小童!」
「お怪我は?」
あの転び方だとものすごく痛いはず。
焦った様子で腰を浮かせた、女官なのかな? 高級そうな打掛を着た女性に目配せをしてみる。
その女性は、勝千代の顔をみて、やはりこれまでの者たちと同じように驚愕の表情になった。
ああうん、びっくりしたのはわかった。
でもあなたの上司だろうおばあちゃんが、尻を押さえて喚いているんだけど。何とかしてくれないかな。
半年前に死んだという兄もまた、この聞くに堪えない罵倒を受けたのだろうか。
勝千代と違って、恐らくは本当にただの四歳児だったはずだ。
扇子で叩かれたりもしたのだろうか。
もっとずっと幼少期なら、避けることもできなかっただろう。
込み上げてきたのは、黒い憎悪だ。
母親がいない兄は、このような謂れのない扱いにずっとさらされていたのだろう。
それは、虐待を受けて育った自身の過去を思い起こさせた。
そうだ、それで勝千代は瀕死の状態にまで追い込まれ、兄は……死んでしまったのだ。
「……ひっ」
主の前にもかかわらず、京訛りの強い罵詈雑言を垂れ流していた老女が、不意に勝千代の顔を見て息を飲んだ。
きっとその皺首を締めあげて、ガンガン頭突きをかましてやる妄想をしたからだな。
いつの間にか、勝千代の顔から笑みが抜け落ち、完全な無の表情で老女を見下ろしていた。




