17-4
一応思うわけだ。
勝千代は曲がりなりにもこいつの主の嫡男であり、ちょっとぐらいは尊重されてもいいんじゃないかと。
土下座して詫びた殊勝さはどこに落としてきたのか、駿府まで向かう数時間、延々愚痴を聞かされ続けた。
何の愚痴かというと、勝千代を含め周囲全員に対してだ。
すいませんね、貧相で貧弱でひねくれもので可愛くないお子様で。
ここまで頭ごなしに全否定されると、腹が立つより、だんだん凹んでくる。
聞き流せばいいのだろうが、馬上でぎゅっと抱きかかえられているのでそもそも逃げられないし、意識をよそに逸らそうとすれば、即座にそれに気づいて口舌が鋭くなる。
周囲の視線が、気の毒なものを見る目から、無の境地へと変わっていき、ああこいつらも心の耳に蓋をしているのだな、と察した。
たぶん自分もそんな顔をしているのだろうと思いながら、それでも二木を叱責する気になれないのは、ずっとぎゅうぎゅうと抱きしめる腕の力が緩まないからだろう。
それが唯一の、この男が見せる不安だった。
おそらく怖いのだ。
父がすでに処されてしまったのではないか、間に合わないのではないか……と。
それは、ここにいる誰もが感じている焦燥だった。
周囲は早くも茜色に染まり、冬の短い一日が駆け足で過ぎていく。
父が捕らわれてこれでもう丸三日だそうだ。
集められていた福島の軍勢は、そのまま駿府から距離を置いた。
今のところの旗印である兵庫介叔父が不在なので、撤退するという判断まではしきれなかったようだが、近距離で朝比奈軍を威嚇するのはやめ、軍事演習と言い訳がつく程度の間合いをとるようにした。
遠目に見守っていると、福島軍が下がると同時に、朝比奈のほうも山の際まで戦線を下げた。朝比奈殿はちゃんと約束を守ってくれそうだ。
それだけを見届けて、勝千代は五十余名の手勢を引き連れ駿府へ向かった。
疑惑の種はちゃんとまいておいた。芽吹いてもくれていると思う。
あとは、父を取り戻せれば、すべて片が付く。
西日が沈むころ、駿府の街が一望できる丘に到着した。
右手にはオレンジ色に輝く駿河湾。その照り返しを浴びて広がる街並みは、想像していたよりずっと広く、整然とした碁盤目状だ。
当然真っ先に目に付くのは、堅牢な今川館なのだが、勝千代は意外なほど近くに見える富士山の威容から目を逸らせずにいた。
湧き上がってくるのは、かつて覚えた憧憬だ。
ものすごく懐かしかった。
富士山へは、学生の頃、ゼミの仲間たちと何度も登頂した。
その頃と全く変わらず……いや、表現がおかしいか。通い詰めた古い気象観測所は、まだ建てられてもいないのだから。
おかしな話だが、その時になって初めて、「過去という不可解なものの中にいる」現実を突き付けられた気がした。
先の見えない暗い穴の中に閉じ込められたような……真夜中の森で迷子になった子供のような……何もできない、非力な人間であることへの絶望。
そう、中の人がいようがいまいが、宇宙の中の砂粒に過ぎない地球上で偶然生まれた、ミクロ、ナノよりちっぽけな存在に過ぎない。
蟻一匹がどう足掻いても地球に影響など与えないように、勝千代が何をどうしようが些事なのかもしれない。
改めて、白い壁をオレンジ色に染め上げた今川館へと目を向ける。
天守閣のような目立つ高層建築はない。
しかし、そのどっしりとした構えと、洗練された美しいフォルムが、駿河遠江を治める今川本家の佇まいをあらわにしていた。
まだ日も沈まない時刻なのに、館の周囲には幾重にも篝火が焚かれ、平時にはない物々しさがある。
この位置からでも、鎧兜に身を固めた軍勢が、城の出入り口を固めているのが見て取れた。
あそこに父がいるのか。
まだ距離があるせいかもしれないが、恐怖心はなかった。
小さな島国の、たった一国の城だ。
頭の中にはまだ、所詮は蟻一匹だという認識がある。
そしてあの城の中に居るのも、同じ非力な蟻たちなのだ。
「福島家の屋敷で、身なりを整えてから登城いたしましょう」
寸前までは、口汚くクソガキの不忠もの(志沢)について罵っていた二木が、ふっと憑き物が落ちたように平坦な口調になって言った。
「舐められるわけに参りません」
「いや」
蟻の身なりなど、どうでもいい事だ。
「父上はそれで捕らわれの身となった。あちらに心の準備をさせてやることはない」
勝千代は、オレンジ色に染まる街並みをゆっくりと見回し、それから、付き従っている五十余名の男たちに目を向けた。
「さて、ここからが肝心だ」
男たちはさっと身を正し、「はい」と頷く。
父の側付きだけではない、二木とともに宿場町に迎えに来た面々も含まれている。
「手はずは良いな?」
「……はい。ですが」
「今から半刻から一刻が目安だ。必ず手渡しするように」
「はっ」
勝千代は馬上から男たちを見下ろし、頷き返した。
二木の献策は、包み隠さず全員に伝えてある。それぞれの真剣な眼差しが、失敗するわけにはいかないと強い意志を持ってこちらを見上げている。
それは、幼い勝千代や二木への信頼というよりも、尊敬する主君を救い出すのだという連帯感であり使命感だった。
それでいいのだ。いや、そうでなければ困る。
再び、眩いオレンジ色の街並みと、対比するように白々とした富士山を視界に収める。
刻一刻と夜へと近づく茜色のパノラマに、凍てつくような冬の厳しさが混じる。
それは頬を打つ冷たい風であり、ごうごうと聞こえる冬の海の音でもあった。
「二木」
勝千代は静かに言った。
「父上を迎えに行こう」
「……はい」
小さな蟻には蟻の戦い方がある。
引く気はなかった。




