16-3
「お待ちを」
立ち上がった勝千代を、興津が引き止める。
「若君にはぜひ朝比奈の方へ行っていただきたい」
そう言われた瞬間に、段蔵の片膝が浮いた。商人の服装のままだが、手には刀を握っている。
「いやいや!」
興津は両手を挙げて、大げさなほどに無害をアピールしている。
「朝比奈側に親戚がおりまして、その者が言うには、当初は演習だということで集められたそうなのです。一昨日あたりにご当主がいらっしゃり、唐突に解散を命じられて、帰郷しようとした翌朝に福島軍蜂起の知らせがはいったそうで」
やけに具体的な情報だった。
諜報が本職である段蔵の配下の者たちでも、福島本陣に父はおらず、どうやら駿府で詮議をうけているらしい、というあやふやな事しか調べがついていないのに。
今の話をどこで聞いてきたのだろうか。
本当に、勝千代と同じタイミングで軍が動いている事を知ったのか?
勝千代の無言の凝視を受けて、興津は眉を八の字に下げた。
「……申し訳ありません。若君のお姿を拝見したときから、知らぬところで何かが起こっているようだと感じ、情報を集めていたのです」
土井がそっと、脇に置いていた刀に手を伸ばす。
誰も何も言わなくとも、命じられればすぐにも切り付けていただろう。
戦い慣れた者たちが、さりげなくとはいえ戦闘態勢にはいったのだ。
空気は重く、張り詰めている。
「朝比奈側は、ただ演習のための招集で、誰もこのような事態になるとは考えてもいなかったそうです」
そういえば興津自身も、馬廻り衆の馬術訓練をしていたのだと言っていた。もしかすると、朝比奈側に近しい立場にいるのかもしれない。
勝千代は土井達の警戒をいさめず、じっと興津の表情を見つめた。
朝比奈殿が駿府へ着いたのは、ここ数日のことだ。
莫大な資金がかかる行軍演習を当主が知らないわけがないが、万が一その「もしも」が起こっていたなら、興津が言っていたように即時解散の命令が下されたという話の筋は通る。
特に今は、御屋形様の健康の問題があるから、呑気に演習など行っている場合ではないはずなのだ。むしろ、他国からの干渉を警戒して、国境に目を光らせるべき……
勝千代の頭の中に、不意にすうっと一本の道筋が見えた気がした。
恐ろしい想像が瞬く間に組みあがっていく。
「興津どの」
「はい」
「御屋形様は本当にご存命なのか?」
急に周囲の温度が下がった気がした。
勝千代の声は小さかったが、ここにいる大人たち全員のひそかな危惧を、ピンポイントで突くものだった。
御屋形様が命を落とした……あるいは、それに近い状態にある。
それが最も、今の状況を説明するのにしっくりくるのだ。
さすがに即答できない興津から目を逸らし、虚空を見つめた。
焦るな、と自身に言い聞かせる。
己が非力な子供だということを、まずは自覚しなければいけない。
そして、できることはあるのか、何をするべきなのか、その優先順位を考えるのだ。
勝千代の一番の目標は、生き延びる事だ。
最初はこの小さな身体の主を死なせないようにと必死だった。息を吸って吐くだけでもいいからと、その程度の望みだった。
段蔵たちに救い出され、父と再会し、二木や土井らと出会い……
縁あって関わるようになったそれらの人々を、失いたくないと思っている。
それは大それた望みか? ……否。
不可能な事か? ……否。
「段蔵」
「は」
「福島軍の指揮系統を調べて。一番いいのが、二木たちを連れてくること」
「はい」
虚空を見たままのその指示に、段蔵は視界の隅っこの方で深く頭を下げる。
「興津どの」
「はっ」
「朝比奈殿とお会いしたい。本陣には行かない。理由は朝比奈殿がご存じだ」
興津も丁寧に頭を垂れ、受領の意を込めて半歩ほど膝で下がった。
数時間後、朝比奈殿がこの宿場町に出向いてくれるとの知らせがあった。
こちらの条件は、軍勢を動かさずに少数での密会。あちらからの条件はなかった。
勝千代は女童の装束を解き、下着から着なおした。
どうやって用意したのか、真新しい白い一重に、青い小袖を重ねて着る。ぱりっと張りのある濃い紺色の直垂に腕を通し、その布の重みに背筋が伸びた。
組みひも小物類も鮮やかな青。トータルで見ると地味な色合いだが、幼い子供が身にまとうと不思議に鮮やかな装いだ。
髪をポニーテールのように高い位置で結わえてもらい、おくれ毛を鬢付けで撫でつけると、そこにいるのは可愛らしい幼い女童ではなく、少々小柄だがいっぱしの武家の若君だった。
部屋を出ると、身なりを整えた土井達が控えていた。
段蔵たちの姿は見えない。彼ら本来の影供の役割に戻ったのだと思う。
武士たちを従え宿屋の入り口まで戻ると、興津とその配下の者たちが神妙な顔をして待っていた。
勝千代を見るなり、興津の目が潤んだ。
その孫を見るような眼はなんだと若干引いていると、彼はその場で片膝をつき、従順の礼をした。
「……勝千代殿」
声を掛けられて、顔を上げると、鎧を外した略装の朝比奈殿が立っていた。
相変わらずのサラサラ髪で、生真面目そうな雰囲気は変わらない。
勝千代は彼の表情に、己への強い敵愾心などがないのを読み取って、やはりそうかと納得していた。
「少し歩きましょうか」
歩幅が小さいので、歩く速度をあわせてくれると助かる。




