16-2
「さあ、気づかれる前に町に戻りましょう。逆側の木戸から町を出て……」
興津の丸顔をただ見つめ返した。
ここに居ては危険だと、彼はそう思っているのだ。
朝比奈は御台さま(嫡男)の派閥。
福島はご側室(三男)の派閥だ。
そして、亡くなったはずの次男がここにいる……
興津でなくとも、ものすごく壮大な陰謀があると考えてしまうのもおかしくない。
すぐに引き返して、しっかりと木戸を閉めるよう命じる。
同じよう町を出ようとしていた旅人たちも、この町の住人達も、何事かというふうに不安そうな顔をしている。
勝千代は、乗ったばかりの馬を下りた。
このまま逆方向から町を出るにしても、退路を決めずに進むわけにはいかない。
「お勝さま!」
遠くから、よく通る声で名前を呼ばれた。
駆け寄ってくる人影を、興津がさっと遮ったのが印象的だった。
遮られる寸前、駆け寄ってくる者が腰の刀に手を当てるのが見てとれた。
興津はそれに反応したのだろうし、彼の配下の者たちもみな、すぐに刀を抜けるよう身構えている。
「おのれ! お勝さまをどこへ連れていく!!」
まるで真横で叫ばれているかのような声量……土井だ。
土井達には、町人を装う勝千代たちが、武士に捕らえられているように見えたのだろう。
しかし、興津達からみると、急に刀を抜き襲い掛かってきた狼藉ものだ。
興津は、勝千代の名前を叫ぶ彼らに反撃するのをためらったようだが、土井達はちがう。
いち早く駆けつけてきた土井が、両手で刀を握って振り上げている。
「土井!」
とっさに鋭くそう声を上げていた。
ギュンと鋼が滑る音がする。興津が、土井の攻撃を真正面から受けず、いなしたのだ。
「やめよ」
数日ぶりに見る土井の顔には無精ひげ。
勝千代たちのように宿に泊まったわけではなく、山中で幾日も過ごしたからだろう。
だが、怪我はなさそうなので安心した。
風魔の追っ手を半数でも引き受けてくれたのなら、その分危険も多かっただろう。
土井の後から駆けてくる面々も、見たところ無事そうだ。
「急ぎ話しておくことがある。宿の方へ……」
ほっとしすぎていて、気を抜いてしまった。
普段通りの口調で土井にそう指示を出していて、周囲がぽかんと口を開けているのに気づいた。
しまったと口を閉ざしたが、すでに遅し。
……すまん、兄よ。女装癖のある若君だと噂が流れるかもしれないが、勘弁してほしい。
興津が「ごほん」とわざとらしい咳ばらいをする。
勝千代はさっとその身体の影に入って、周囲の視線を遮ろうとした。
もちろん簡単にはいかず、特に興津の配下の者たちのあっけにとられた表情が胸に刺さる。
「ゆっくりしている暇は御座いませんぞ」
そうだった。
段蔵たちにさっと目配せをしてから、出てきたばかりの宿に向かって歩き始める。
到着したばかりの土井達には悪いが、すぐに動いてもらわなくてはならない。
「えっ」
宿に到着した直後、興津がいったん下がったタイミングで、土井たちに状況を説明した。
皆心底驚いた顔をしていて、寝耳に水だったという事が分かる。
「指揮をとっているのは誰だと思う?」
父ではないという確信があった。
軍を動かすには時間がかかる。あれだけの数を整えるには、ずっと前からその予兆があったはずだ。
だが数日前まで、父と朝比奈殿との間に深刻な不和はなかった。お互いに思う所はあったのかもしれないが、朝比奈領に勝千代を置いていってもいいと判断するぐらいには、信頼していたように見えた。対立する予定があるなら、勝千代をあの町に置いていきはしなかっただろう。
掛川の城でもそうだ。
もし福島家と朝比奈家との間で深刻な事情が発生しているなら、大勢が集められたあの広場で、そういう空気を感じていてもおかしくはなかった。
厄介な問題はあったが、城代をはじめ大多数は勝千代に悪意を向けてはこなかった。
皆で難しい顔をしていると、段蔵が奥の方から現れて無言で膝をついた。
そして差し出されたのは一通の結び文だ。いったん解かれ、丁寧に折りたたまれていた文に、勝千代は素早く目を通す。
それほど長くもなく、殴り書きに近いその文を読み終えると、ぎゅっと眉間にしわが寄った。
「失礼いたします」
表で配下の者たちに指示を出していた興津が戻ってきた。
ここは部屋でもなく、宿の入り口の土間に近い、いうなればエントランスの部分なので、作法的に下座も上座もない。
にもかかわらず、興津は丁寧に頭を下げてから低い位置に膝をついた。
「少し事情が分かって参りました」
勝千代は、段蔵から受け取った情報が受け入れがたく、いまだ険しい表情のままだった。
取り繕う余裕もない。
興津はその様子を冷静に観察し、ちらりと結び文に目を向けたが、取り立ててそれを指摘することなく言葉を続けた。
「朝比奈の軍は、駿府の守護のために動いたようです。福島殿が謀反の詮議をうけて捕らわれの身となり、それを不服とした御一門衆が兵を挙げたとか……いや、まだ噂に過ぎないのですが」
勝千代はいったん目を閉じ、呼吸を整えた。
くしゃりと手の中で文が潰れる。
もともと不安はあったのだ。
武力に秀でた父だが、謀略には弱い。岡部を巻き込んでまで命を狙われ、それが上手く行かなかったとわかった敵が、次にどう出るかと気に掛けていた。
非力な勝千代には、過ぎるほどの敵を。
父には、もっとも苦手な謀り事を。
敵は、嫌なところを的確についてくる。
「福島軍の本陣へ向かう」
しばらくして、勝千代は静かに言った。




