15-5
頭皮に激痛が走り、とっさに男の手を掴み返す。
勝千代から引き離された楓が、ボールのように転がって地面を跳ねた。
この野郎! と、猛烈な怒りが沸き上がった。
大事な髪への狼藉はもちろんの事、小さな女の子をあんなに強く吹き飛ばすだなんて!
ぎらり、と銀色の輝きが首筋に迫り、実際ちりりと鋭い痛みを感じてはいたが、恐怖に震えるより怒りが勝った。
ばたつかせた足で男の身体を蹴りまくった。
だが相手は鍛えている大人だ。幼い子供の反撃など、大した衝撃ではなかったはずだ。
動きが止まった理由が分からず、なおもじたばたとしていると、ぐらり、と男は膝から崩れ落ちた。
それでもなお手を放してくれないので、手加減も容赦もなくその顔面に蹴りを入れる。
男の手から勝千代を引き離したのは、血まみれの人足だった。
さらにポイポイと、まるでバケツリレーのように大人の腕を経由して、襲い掛かってきた刺客から距離をとらされる。
刺客は胸元に手を当ててから、ゆっくりと背後を振り仰いだ。
表情のない顔でそこに立っていたのは、段蔵だ。
商人らしい手甲に覆われた手が、軽くひねりながら背後に引かれてはじめて、刺客の腹から血まみれの刃が飛び出していたことに気づいた。
腹から噴き出した鮮血が地面に飛び散る。
「……」
早くも血の気を失った男の唇が、ゆるく弧を描き、何かを紡ぐ。
段蔵の眉がぎゅっと寄せられた。
やおらとびかかって来た楓の頭が鼻頭を強打した。
「うっ」と仰け反った勝千代と、しがみついてくる彼女とを引き離したのは弥太郎だ。
勢いよく吹き飛ばされたので心配していたのだが、よかった、怪我はないようだ。
裕福な商人の娘らしいきれいな着物が、土と血とで汚れているのはお互い様だ。
勝千代を刺そうとした武士は死んでいた。
段蔵が刺したのが致命傷ではなく、舌を噛んだようだ。
刀を鞘に納めた段蔵の背後から、死んだ男の同輩たちが駆けつけてくる。
今更に周囲の惨状に驚き、あちらこちらに視線をやり、転がっている仲間の死体に気づいてようやく柄に手を置いた。
「うわああああああん!」と、楓がひときわ大きな泣き声を上げた。
彼女に視線が集中し、警戒していた武士たちが困惑した表情になった。
「お父ちゃん! 怖かったぁぁ! お父ちゃん!!」
飛び掛かった彼女が隠したかったのは、間違いなく勝千代の存在感だ。
とっさのその判断に引っ張られるように、勝千代も弥太郎に抱き着いて顔を伏せた。
駆けつけてきた武士たちに、いったい何が起こったのかと尋ねられた段蔵は、ただ「わかりません」と答えるだけで、娘の無事に安堵している父親を完璧に演じている。
楓がものすごい声量で泣いているので、そちらの方が心配とばかりに、しきりに彼女の背中を撫でている。
中でもひときわ身なりのいい武士が、痛まし気に楓を見て、その視線が勝千代の方を向いた。
弥太郎の手が、ぐいと後頭部を押さえて顔を伏せさせる。
ぽんぽんと、さも宥めるような手つきをしているが……今のでちょっと首を捻ったぞ。
はっきりと勝千代の顔は見えなかったはずだ。
しかしその男は、何かに気づいたように目を大きく見開いた。
「その女童……いや、その方は」
弥太郎のもう一方の手に、力がこもるのが分かった。
勝千代はそっと、弥太郎の腕に手を置いた。
一度ぎゅっと目を閉じて、呼吸を整えて。
男と視線を合わせた瞬間、彼が見ているのが何かを悟った。
そして、疑問と不審が入り混じり、判断に迷っていることも。
何を考えているのか、手に取るように分かった。
彼はおそらく、勝千代を兄と勘違いしている。
死んだという事は知られていないのか? 知られていたとしても、もし勝千代が瓜二つといっていいほど似ているのなら、その情報は誤りなのかといぶかしんだのではないか?
勝千代は弥太郎の肩に頬を乗せたまま、人差し指をそっと唇に当てた。
「……っ」
さっと周囲に視線を向けて見せ、小さくかぶりを振る。
それだけで、男が何かを悟ったように表情を険しくした。
もう一日、この宿場町に滞在することになった。
それは勝千代たちだけではなく、生き残った者のほとんど全員だ。
怪我をした者も大勢いたが、それが理由ではなく、街道の安全の確認が済むまではという理由で、町から出るための木戸が解放されなかったからだ。
守られていただけの勝千代だが、いくらか血を浴びていたので、宿に戻ってから盥の湯で髪を洗ってもらった。
ちなみに、シャンプーやリンスは存在しないが、それに近しいものはあって、ドロドロの灰色の物体で髪を洗う。泡は立たないが、結構しっかり洗える。
油脂分が落ちすぎて、そのまま放置しておくととんでもなくギシギシになるが、いい匂いのする油を少量擦りこむとそれも解決。
さっぱりすっきり。毎日洗いたいぐらいだ。
勝千代は今、改めて薄黄色の女童の着物を着せられて、宿の上座にちんまりと座っている。
髪がきれいになって、いくらか顔色も回復していた。
頭を下げているのは、先ほどの身分ありげな武士だ。
勝千代は黙ってその頭のてっぺんを見下ろし、どうするべきかと思案した。
目の前には二つの選択肢がある。
兄を名乗るか、違うと言うか。
本来であれば即決で後者を選ぶべきなのだろうが、男がすっかり勝千代を兄だと誤認していること、何がしかの陰謀論を推察してわかった風な顔をしていることとで、判断に迷う。
それにしても……
勝千代は下げられ続けている頭の丸みをまじまじと見つめ、いくらかの同情と共感とでしんみりとした。
何故かって? ……言わせるなよ。




