15-3
「……楓?」
震える手を握り返して、こそっとその名前を呼ぶと、彼女は唇を震わせて勝千代を見下ろした。
「……すいません」
「どうした」
「あたしのせいだ。あたしの」
ばさり、と頭上に茣蓙が掛かった。
大八車よりもっと原始的な、斜面になると人足が二人がかりで担いでいける小さな荷台だ。荷物を埃から守るための茣蓙一枚で、二人の子供はすっぽり隠されてしまう。
「あたしが夕べ騒ぎを大きくしたから……っ」
勝千代は息を殺し、周囲の様子を伺った。
出立の人々の喧騒がざわざわと聞こえてくる。
「追っ手か?」
何も異常は感じなかったが、声を潜めてそう問いかけると、楓は小さく首を上下させた。
風魔の追っ手が、すぐそこまで迫っているらしい。
「組頭はあまり顔が知られていないけど、頭領は……」
商人に変装していても、段蔵を知るものが居たら即わかってしまう、ということか。
ぞわり、と首筋の毛が逆立ち、楓が震えているのか、勝千代が震えているのか、わからなくなる。
勝千代はもう一度、楓の手をぎゅっと握った。
「もとより、私が駿府へ向かっているのはあちらもわかっていたはずだ。追いつかれるのも時間の問題だった」
撒けたと言っていたが、距離をあけることができたわけではない。一晩休息している間に、ダミーを振るい落として追いついてきたのだろう。
「何人ぐらいいるかわかる?」
楓は小さく首を振った。
「騒ぎを大きくしたのは弥太郎もだ。むしろあちらの方が派手だった」
「……はい」
非力な勝千代にできることは何もない。
ひたすら見つからないように祈りながら、息を殺し続ける。
そもそも勝千代がこんなところに居るのは、風魔忍びが刺客として雇われたと知ったからだ。
問題はその数で、寒月の屋敷の警備を掻い潜る腕があるのも厄介だった。
ただでさえ公家は、武家の事を良く思っていない。
そんな中、寒月の屋敷が襲撃され、ほんのかすり傷でも怪我をさせてしまったとしよう。
勝千代も襲われた側だが、それでも、世間の目は福島家を責めるだろう。
公家の力は年々下がっているが、武家より高い身分だという事に違いはなく、こちらの事情に巻き込んでいいようなお方ではないのだ。
世の顰蹙を買えば、下手をしたら粛清、あるいは戦争の口実にされかねない。
そこに寒月の意向は関係なく、「意を汲んだ」とどこぞの武家が仕掛けてくる可能性があるという事だ。
万が一それが今川本家だったら……父の立場はあっという間に悪くなってしまうだろう。
それほどに、五十人という忍びの数は脅威で、幼い童である勝千代の手には負えない代物だった。
「おおおーい! 出るぞぉ」
人足に扮した味方がそう声を上げ、荷台がガタリと揺れた。
一応車輪付きの荷車だが、サスペンションもスプリングもないし、車輪も車軸も木製だ。
構造そのものが原始的なので、快適さとは程遠く、尋常じゃなくガタガタする。
ようやく出発できると喜ぶよりも、こんな揺れでよく寝ていたな、と一日目の自分に感心した。
旅立つ人が多いせいか、進み方はゆっくりだ。
それでも、車輪が小石を踏むたびに尻が飛び上がる。
町を出たら襲撃されるだろうと畏れる気持ちよりも、尻が四つに割れる心配の方が先のような気がしてきた。
御座の端からわずかに見えている道が、踏みしめられた硬いものから若干草の生えた赤味がかった土に変わる。
もうすぐ町はずれにある木戸に差し掛かる。そこをくぐれば、外だ。
不意に、楓がぎゅうと手に力を込めた。
一瞬後、台車の角度が変わり、人足が引き手から手を離したのが分かる。
勝千代はとっさに楓にしがみついた。
同時に、高く荷物を積んだ台車は横向きに倒れた。
何が起こったのかわからなかった。
風魔衆の襲撃は、町を出てからだと思い込んでいたからだ。
きゃあああああっ、と女衆の悲鳴が聞こえた。
なんだなんだと、男たちが騒ぐ。
ボスボスボス! と何かが刺さる音がする。
かさ高く積まれていた荷物が崩れ、そこに矢が射かけられたのだ。
にぎやかに、楽し気に、駿府への旅に出ようとしていた人々が、一斉にパニックに陥った。
さっと茣蓙が捲られて、とっさに楓が覆い被るように勝千代を抱き込む。
勝千代は荷台に後頭部を思いっきりぶつけて、くぐもった声を上げた。
それでも目を閉じなかったのは、楓の必死の表情が目に焼き付いていたからだ。
太い腕が、楓ごと二人を抱え上げた。
それは、荷台を引いていた人足のうちの一人だった。
「無事か!」
勝千代は、茫然とその男を見上げた。
背中に矢が刺さっている。
血が上半身を濡らしている。
それなのに、男は勝千代と楓を抱えあげて物陰へと走った。
人々のパニックの声が鼓膜を焼く。
瞬きを忘れた目の奥が、じくじくと痛む。
矢が刺さったままの男の肩越しに、段蔵を取り囲む複数人の町人の姿が見えた。
一斉に切りかかられる様を、息すらせずにじっと見つめて。
段蔵の着物の袖が切り裂かれ、垂れ下がる。
その足元には、血まみれの人足たちが数人転がっている。
振りかぶられた剣をかわし、返しざまに段蔵もまた銀色に輝く刃を振りぬく。
平和な時代に生きてきた。
人が死ぬ様子など、滅多に見ることなどない時代だ。
殺人は罪だ。
ほかの人を傷つけるのは、決して許されない行為だ。
そんな、生まれた時からの確固たるアイデンティティが、ぐらぐらと揺れていた。




