12-5
翌日には完全に熱が下がった。
弥太郎の薬湯のおかげなのか、少しづつ身体が丈夫になってきているのか。
どちらにせよ、気分は爽快。さっさと着替えを済ませ、床上げを急かせる。
弥太郎が脱いだ小袖をたたんでいる間に、土井が寝床を片してくれた。
またすぐに使うからと部屋の隅に置くのではなく、きちんと別のところに持って行かせた。
火鉢の数もふたつまで減らし、ものが減ったせいで、部屋はずいぶんすっきりして見える。
「万事は来ているか?」
「はい。ぶうぶう文句を言っています」
「飯でも食わせてやれば黙るだろう」
弥太郎が着せてくれたのは、裏地に紫色の布を張った、表が茶色い直垂だった。
一朗太殿のお下がりで、少し柄が目立つものだ。
実はこれは勝千代が指定した。ナツはどうかわからないが、志乃はおそらくこの着物を見たことがある。もしかするとそれに気づき、気を許してくれるかもしれない。そんな淡い期待があった。
「料理が質素すぎると文句を言っていましたよ」
不服そうな土井に、笑みを向ける。
あの体格からいっても、獣肉を常食にしているのではないか。
だとすれば、魚ですら時折しか膳に上がらない食事は、さぞ物足りないだろう。
「では呼んできてくれ」
呼んだのは万事だが、本命はナツだ。
彼女はまだ、姉が助け出されたことは知らないはずだ。
今の精神状態を見て、志乃に会わせるべきか決めるつもりだった。
「……万事です」
廊下に控えていた南が、そう知らせてくる。
どすどすと荒めの足音の後、逆光になって余計に大きく見える男の姿が現れた。
万事はぐるりと部屋内を見回し、勝千代を見てほっとしたように息を吐いた。
「殿さまが駿府に行ったと聞いたぞ」
それは言葉通りの問いかけではなく、勝千代への気遣いだとすぐにわかった。
意外と心根のいい男だ。
「事情があってね」
大股に部屋に入ってきて、どすんと下座に座った万事の背後には、その大きな身体に隠れるようにして、ちんまりと小柄な女童がいた。
淡い黄色の着物に可愛らしい帯。ザンバラだった髪もきちんと整えられている。
「……岡部二郎殿のご息女、奈津殿ですね」
女童はビクリと身を固くした。
「ご心配には及びません。私は御父上にお世話になった者です」
実際は殺されそうになったんだけどね。
じっと観察していると、ナツはぎゅうと万事の着物の袖をつかんだまま、ぶるぶると震え始めた。
「ナツ殿」
宥めるように声を柔くし、にっこりと微笑みかける。
見ろ、弟より年下の、可愛らしい童子だぞ。
「福島勝千代と申します」
「……っ、はい」
怖いことなど何もないのだと、そう思いたくとも、身体がついていかない……といったところか。
しばらく見守っていると、ナツはおずおずと顔を上げた。
その目がゆっくりと床をさ迷い、時間をかけて勝千代のほうまでたどり着いてくれたので、視線を合わせて安心させるように微笑みかける。
しかし、落ち着かせようというこちらの思惑は外れ、勝千代の顔を見た瞬間、彼女はぎょっとしたように息を止めた。
まるで、幽霊でも見たかのような表情だった。
ああやはり、彼女は兄を知っているのだ。
きっと己に似ていたのだろうと、少しやりきれないものを感じながら目を伏せる。
「実は姉君も保護しています」
勝千代のその言葉を聞いて、ナツは今にも気絶しそうな表情で、ごくりと喉を鳴らした。
「……誠でしょうか」
「怖い目に遭って、お心が乱れておいでです」
「あ、会わせてください! どうか、どうか」
「ナツ殿」
こちらににじり寄る仕草も、懇願する姿勢も、しっかりとした教育を受け、誰かに仕えていたとわかる所作だった。
勝千代はそんな彼女に、子供としてではなく、ひとりの人間として接することにした。
もとより、家族である彼女に、長く伏せておくべき事ではない。
「志乃殿は今、とても苦しんでおいでです。ナツ殿の御無事を知れば安心なさるでしょうが、つらいお気持ちを我慢なさるかもしれません」
ナツは即座に、その意味を理解したようだった。
幼いと言っても、勝千代より一、二歳は年上だ。すでにもう出仕していたというから、しつけも行き届いた子だったのだろう。
大粒の涙をこぼしながら、声を上げない。
その胸が苦しくなるような泣き方を見て、耐えきれなくなったのは万事だ。
大きな手で、そっと彼女の背中を摩る。
「お会いになりますか?」
その涙が途切れるまで待って、勝千代は静かに問いかけた。
ナツは頬を濡らす雫をさっと拭い、大きく深呼吸する。
「はい。会いたいです」
きっぱりと言うその表情には、決意があった。
「ではその前に涙を拭かねばなりません。志乃殿には、元気に笑っている顔を見せてあげてください」
「はい、若君」
勝千代は苦笑した。
ナツが何を判断基準に「若君」と言ったかなど、明白だ。
しかしそれは、表沙汰にはしてほしくない事だ。
「わたしはあなたの若君ではありませんよ」
出自はどうであれ、身分的には同格に近いと思う。
勝千代の言葉に従順に頷いたが、この先もずっと、ナツがそう呼ぶのをやめることはなかった。




