12-2
「聞き分けろ」
父が言う。
「今回ばかりはならぬ」
勝千代は、しわしわになった父の袖をさらに強く握った
「お邪魔にはなりません。必ずお役に立てます」
「……お勝」
太い眉をハの字に曲げて、ものすごく困った顔だ。
勝千代の年にそぐわない物言いや提案を、嫌な顔ひとつせず聞いてくれる父だが、この件だけは受け入れてくれないようだ。
早々にわかってしまったが、諦めきれない。
今別れたら、二度と会えない気がするのだ。
その本能的な危機感を、父は親と離れることへの不安と捉えたようだ。
いや、違いはしない。
短い時間だが戦国の世に触れ、命の軽さを実感した。
そうだとも、不安なのだ。
このまま父に会えなくなってしまうのではと、心細いのだ。
勝千代は俯き、奥歯をかみしめた。
どうやって説得しようかと考えを巡らせていると、ぽんぽんと頭を撫でられる。
大きな手だ。
勝千代には持ち上げることがやっとの長槍を、軽々扱う武士の手だ。
「これはな、危ういと思うが故の決断だ。嫡男のそなたとワシが同じところにいるのは良くない」
それは、本格的な危険が迫っているということではないか。
うるっと涙が滲みそうになり、唇を引き結んで堪えた。
父のいう事もわかる。わかってしまう。
冷静な大人としては、それがリスクヘッジであり、必要な事なのかもしれないと思ってはいるが、小さな子供である勝千代の心が単純に嫌だと言う。
これ以上はわがままだ。
指からそっと力を抜いたが、父の袖から手を離しはしなかった。
「……わかりました」
小さな声で呟く。
「ですが約束してください。必ず死なないと」
武士には無理な約束だろう。
正しく命を使うことを望む父が、勝千代のそんな言葉で気持ちを変えるとは思えない。
「腕を失ってもいい、足を失ってもいい。両方の目が見えなくなってもいい……」
たとえ寝たきりになろうとも、家族の命が大切だという考えは、ずっと先の平和な世ではぐくまれた感覚なのだろう。
「父上が生き延びてくれさえすれば、それでいいです」
図体の大きな父の面倒を一生見ることになるのだとしても、生きていてほしいと願う。
勝千代にとって父は、厳しいこの時代における唯一の家族なのだ。
父は答えなかった。
目尻にしわを寄せて勝千代を見下ろし、もう一度そっと頭を撫でた。
そして慌ただしく支度は整えられ、父は夜が明ける前に駿府へと旅立っていった。
供の半数は残していくと言っていたが、それは断った。
これから先危険になるのは、しばらくはまた寝込みそうな勝千代ではなく、駿府へ向かう父のほうだ。
公家の屋敷という、ある意味武家にとっての安全地帯に匿われることが決まり、それほどの護衛が必要なくなった、というのも理由の一つだ。
遠ざかっていく父の背中を、見えなくなるまで見送る。
泣かないぞ。
そう言い聞かせていないと、涙腺の緩いお子様の身体は簡単に決壊してしまいそうだ。
「寝ておらんのやろう? 横になって休んだ方が良い」
勝千代の隣で、同じように見送りにきていた東雲が言う。
「ここの家主はけっこうやりおるから、危険はない思うてお眠り」
まだ一度も顔を見たことがない家主は、「おおとのさん」と呼ばれている。
呼び方だけでも結構引っかかるものがあるが、あまり聞いてほしくなさそうなので、意をくんで黙っている。
というのも、この時代、公家と武家とは別の道を行っているイメージがあり、ますます権勢を増していく武家と違い、力を落としていくのが公家だ。その上さらに、こんな片田舎に隠居しているわけだから、事情があるのだろうと察しはつく。
これからしばらく世話になるのだから、気は使わないと。
「ご挨拶だけはさせてください」
そういうと、うーんと首を捻り、
「年寄りやから、今頃はまだぐっすり寝てはるやろうし、あとでええよ」
相変わらずの見事な扇子使いで口元を覆い、なんとなくだが、はぐらかされたのが分かる。
勝千代は「そうですか」と一つ頷き、まだ夜明け前の暗い空を見上げた。
太陽が出てくるにはまだしばらくかかる。
父が去っていった方向に視線を戻し、もう見えなくなったその背中に目を凝らして、追いかけて行きたい衝動をぐっと飲みこんだ。
「そういえば、あの若い娘さんのことやが」
連れ立って屋敷に戻りながら、こっそり涙を拭っていると、ふと思い出した様子で東雲は言った。
「なんでか駿府のお方の病気の事、知っとってやった」
はっと気持ちが引き締まる。
父ですら知らなかったことを?
なぜ彼女がそれを知り得たのか、考えたらぞっと恐ろしいことを想像してしまった。
「まさか……」
「いや、うちのが調べたところ、死病とかではないらしいし、すぐにどうこうということではなさそうや」
「御屋形様」がすでにもう死んでいるのではないか、だとすれば父を引き留めないと。
一躍飛びに至ったその考えが、即座に否定される。
「でもなぁ、近しい者にも秘しとった事を、あんな若い子が知っとるのはちょっとおかしい」
「御台さまのお近くで女官をなさっていたようですし、そういうことを知る機会もあったのかもしれません」
「……内々に居る子ならそれもあるのやろうけど、こういうことになってくるとなぁ」
駿府から離れ、如章の手に捕らわれていた。
岡部殿が脅迫されていた事実と、無関係だとは思えない。
「わかりました」
父がいなくなり、落ち込んでいた気持ちが浮上する。
急激に頭がすっきりとして、思考が明瞭に働き始める。
「話を聞いてみます。大人よりは聞き出しやすいはずです」
「そうしてくれるか? どうにも大人の男が怖いみたいや……無理もない」
ここにいても出来ることがある。そう思えるだけで、前向きな気持ちになってきた。
そうとも、純粋な武力の面では足手まといどころか邪魔にしかならない。
出生上の複雑な事情がありそうなところに乗り込んでいっても、ややこしい事になるだけだろう。
「……その前に」
パチン、と扇子が閉ざされ、その先端が勝千代のこめかみに向いた。
「まだ熱あるんやろう? とりあえずは身体を休めることや」
顔をしかめると、軽く額を叩かれた。
「子供はな、よう寝なよう育たんゆうんや。そなた数えで六つやて聞いたけど、うちの甥っ子より小さいやないか」
「その甥御さんはおいくつですか?」
「四つ」
いやいや、四歳児より小さいわけがないだろう。
笑い飛ばそうとしたのだが、真摯な目で見降ろされ、不安になってきた。
……冗談だよね?




