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すいません、予約投稿ミスりました><
低く頭を下げているのは日向屋だ。
頭髪はまだらに白く、日焼けした顔は浅黒い。
髪の白さに比べて若々しいダンディな男だが、ここ数日の心労が祟ったのだろう、ひどくやつれた面差しをしていた。
「この度は誠にありがとうございました。おかげさまで家内は持ち直しそうです」
「……そうか」
重々しく頷いているのは、父だ。
その目がちらちらこちらを見ているが、気にしない。
父の心境は、何をしたわけでもないのに礼を言われても困る、といったところだろう。
だが、骨ばった手をついて頭を下げている日向屋からしてみると、本来助からなかった命を掬い上げてくれた大恩人なのだ。
それはそうだ。四歳児が諸々の差配をしたなどと、普通は考えない。
勝千代も、その思い込みを否定しようとも思わなかった。
むしろ、そのほうがありがたいぐらいだ。
「あとは日にち薬でしょう。お若いですし、回復も早いと思います」
盥で手を洗いながら、弥太郎が言う。
一瞬その柔らかな微笑みに、血まみれで立ち尽くすあの時の表情が重なって見えた。
いや、違う。彼の本質は今の穏やかな表情だ。
誰かを助けることのほうが、彼には似合っている。
女性が臥せっている近くに長々といるのも憚られ、軽く様子を見ただけで父は立ち上がった。
「ワシらは、東雲どのにあいさつだけして、宿の方に戻る」
「はい。夜分にわざわざお見舞いくださいまして……」
「そなたも休め」
頭を下げ続ける商人に向かって、父はぶっきらぼうに告げる。
聞きようによっては突き放すような、冷たい台詞にも聞こえたが、日向屋を見下ろす表情は柔い。
「事の片はついた。もう難儀なことは起こらぬだろう」
「……はい、はい」
床に突っ伏す日向屋の肩が震えている。
百戦錬磨の堺の商人でも、実際に命の危険にさらされ肝が冷えたのだろう。
そのままひとつ頷き踵を返そうとした父に向かって、こほん、と空咳をする。
ここに来る前に頼んだことを、ようやく思い出してくれたのだろう、立ち上がった父が、高い位置から日向屋を見下ろして動きを止める。
頭を下げ続けている日向屋は気づかなかっただろうが、露骨に「しまった」という表情になって、再びちらりと勝千代に目を向けた。
「……本願寺の宗主殿から何か言うてくるやもしれぬ。その際にはワシのほうに知らせをよこせ」
そうそう。大事な事だから、絶対にそう言っておいてとお願いしたのだ。
武家と仏門のとの関係性が今どうなのか、把握できてはいない。
しかし、あと何年か何十年か後にはこの辺りで一向一揆が起こり、対立が顕在化するのだ
そうなる前に、少しでもパイプを作っておけば、最悪なことが起こらず済むかもしれない。
争いとは、互いの不理解から起こることが多い。
話し合って済むことであれば、それに越したことはない。
まあ要するに、仲良くなって矛先をこちらに向けないようにしたいわけだ。
そういう観点からいえば、今回の一件で相手に負い目がある分、こちらが優位に立てる。
……父はこういうことにはあまり興味がないようだが。
日向屋に重ね重ね礼を言われ、部屋を後にする。
廊下に出た瞬間、急に吐く息が真っ白になった。
吹き付ける乾燥した風に、ぶるりと大きく身を震わせる。
「福島どの」
外回廊の廊下をしばらく歩いていると、待っていたらしい東雲に声を掛けられた。
東雲は縁側に優雅に腰を下ろし、手に盃を持っていた。
「今日の月はまんまるや……一献いかがやろか」
この寒い中何をしているのかと思えば、酒か。
かつて好んで飲んでいた、辛めの日本酒の味が口の中によみがえる。
しかしこの時代、まだ清酒はない。
東雲のお猪口に注がれているのは、少しとろみがある濁り酒だ。
どんな味だろうと興味がわいた。
もちろん、お子様なので飲まないよ。……でもちょっとだけ、味見ぐらいなら。
「申し訳ないが」
「ああ、まだ熱が?」
父は即座に断り、理由を察しこちらを見た東雲が、空いている方の手でちょいちょいと手招いた。
酒につられてフラフラと近寄りかけて、父に引き止められる。
「もうだいぶ更けてきたし、泊っていきはったらええ」
「……いや、そこまで面倒を掛けるわけには」
「家主もな、大急ぎで寝間の準備しよったよ」
ここは、わりと有名どころの公家の別宅なのだそうだ。
聞いた話によると、今川家と公家との関係は深く、諸事情によりこの辺りに居を構えている方も珍しくはないという。
東雲の口ぶりから言うと、家主も公家だろうか。
そちらともきちんと挨拶をしておかなければ……
「勝千代どのも、もう眠そうや」
「……む」
父が、東雲のお猪口を凝視しながら思案している勝千代に目を向けた。
い、いや! 酒の味のことなど考えていないからね!
「それにな、ちょっと話ときたい事があって」
東雲は、勝手に焦っている勝千代を尻目に、ほっそりとした指でお猪口を脇に置いた。
「うちの奴が、あまり良うない話を拾ってきよって」
落とした声は、風にも紛れそうなほど小さなものだった。
「駿府のお方が、どうやらかなり悪いらしいと」
ひゅっと父が息を飲んだ。




