9-5
「勝千代!」
いきなりの正式名呼びにまず驚いた。
父の心配そうな表情を見るに、怒っているわけではなさそうだったが、やはり客人の前だからだろう、いつものように「お勝」と呼ぶわけでも、そそくさと弥太郎の腕から奪うわけでもない。
ただひどく心配そうにこちらを見ていて、客人の前でどう言葉を続ければいいのか迷っている。
広めの板間の奥の方に東雲、その斜め前に灰色の狩衣の男がひとり。手前下座側に父と二木が座っていた。
その様子に思いのほか違和感があり、何故だろうと考えて、父が下座についているのをはじめて見たからだと気づいた。
なるほど、公家とはこういうものか。
勝千代は入り口近くで降ろされ、その場で膝を揃えて座った。
「勝千代でございます」
正式名を名乗っても良いかわからないので、とりあえず出してもいい情報だけを告げる。
苦労をしながら礼をして、さらにゆっくりとした動作で重い頭を持ち上げると、父だけではなく、上座にいる東雲までもが気掛かりそうな表情をしていた。
「何をしておる、まだ休んでいないとだめではないか!」
「父上、申し上げたいことが」
「ほんにお顔の色が悪い。あいさつは良いゆえはよう横におなり」
大人が口々にそう言うのだから、相当に具合が悪そうに見えるのだろう。
実際、この場でもいいから横になってしまいたい。しかしそうする前に、どうしても言っておきたいことがある。
「東雲さま」
勝千代の真剣な口調に、なにか感じるものがあったのだろう、東雲は口元に当てていた閉じた扇子を下ろした。
「この宿の水瓶に、混ぜ物がされていた話はお聞きになりましたか?」
「えらい目に遭わはりましたなぁ」
「ここ以外の宿屋でも、同様の事が行われたようです」
「……まことに?」
はんなりとした東雲の口調が、急に真剣みを帯びたものに変わった。
これまでが真剣ではなかった、というわけではない。もともと京都の言葉は全体的にゆっくりと穏やかな感じなのだ。
しかし、勝千代に問い返すその声色に穏やかさはなく、これもまた京言葉特有の、打ち返されるような冷たさが垣間見えた。
「はい。当家の者が調べてまいりました」
「如章め」
パチリ、苛立ちもあらわに扇子を開け閉めする。
「紡ぎ手(敵)は間違いないでしょうか」
「ない」
「当方でも調べてもよろしいでしょうか」
特にそちらの、灰色の狩衣の男……おそらくは段蔵らと同業の彼らと、競合しあうわけにはいかない。
東雲は改めてまじまじと勝千代を見た。
苛立ちよりも、多分に興味を含んだ眼差しだった。
「わざわざご丁寧に言うてくれんでも、好きになさったらよろしいよ。……鶸」
灰色の狩衣の男が静かに頭を下げる。
勝千代は小さく頷いてから、言葉を続けた。
「できましたら人を貸していただきたい。我らは外の者ゆえ、水瓶に混ぜ物がと言われてもおいそれとは信じてもらえぬでしょう。しばらくは用心する必要があると、他の宿の者たちにも周知したいのです」
「そなたは……偽の疫病騒ぎが起こるとお考えなんやね」
「はい」
東雲もそう危惧したから、父と話をしようとしたのだろう?
まさかこんなに早くに騒動が起こるとは思ってもいなかっただろうが。
「父上」
東雲に続いて、おろおろと心配そうな表情の父に目を向ける。
大丈夫。ちゃんと言うべきことをすべて言い終わるまでは倒れたりしないから。
薄く微笑みかけると、父はますます不安そうな表情になった。
駄目だよ。そんな顔をしていては。
「宿には病人などいないと思わせることが肝要です。朝には雨戸をあけ、元気な顔を外に見せてください」
勝千代が再び寝込んだとしても、それは奥に隠し、間違っても号泣したりしてはいけない。
通りをひとつ焼き討ちにするような相手だ、おいそれと弱みを見せるべきではない。
「それから……朝比奈さまにつなぎをつけるのにどれぐらいの日数が必要でしょうか」
できれば、福島正成として正式に朝比奈の当主にあてた書簡を出してほしい。
「早馬なら行って帰って半日といったところだろう」
「ならば今夜中にお願いします」
いくら寺の勢力が強いといっても、ここは朝比奈家の差配する土地だ。関や租税などを管理するのも、敵が攻めてくれば刀を持って戦うのも彼らだ。
今のこの、坊主どもが強い支配権をもつ状態を良しとしているとは思えないし、そもそも、今回のような騒ぎを許しはしないだろう。
むしろ口を挟む好機だと思うのではないか?
「いやしかし、つなぎをつけると言っても何を書けばよいのだ」
単純に、偽の疫病騒ぎが起こっているのが気がかりだと書けばいいと思う。
朝比奈家にとっては、庭先が荒らされているようなものだ。他家の当主からの忠告となればなおさら、見て見ぬ振りはできないはずだ。
「今この町には大きい商家の主人が滞在しとります。堺の日向屋ゆうて、下手な城持ちのお武家より銭も力もお持ちや」
父の困惑した表情に東雲も丁寧に答える。
「それにあんたさんです、福島どの。今川の一門衆に近いところにおりはる。坊主どもが好きな銭もようさんお持ちやろう」
……つまりは金が目当てだというのか?
「如章がよう使う手ですよ。内密に逃がしたるから、融通つけぇゆうて。しかもその一回だけやない。疫病からひとりだけ逃げ出したことを、延々脅して金をせびるんです」
ええええ、ドン引きなんだけど。
あの福々しい顔の裏側で、そんな悪どいことをやっているのか?
すべての仏教徒、まじめにお務めをしている本願寺派の僧侶たちに土下座して謝るべきだ。
「あちらこちらの地方の町で似たような事をやっとるんです。さすがに今回みたいな派手なのは初めてですけどなぁ」
だから、東雲は大量の灰色集団を引き連れてこんな地方の町に来ていたのか。
神職がどうこうできる問題ではない気がするが……。
力ある武家に協力を要請しても、なかなか動いてくれなかったのだろう。
兵力の過半数が自領の農民で占めているこの時代、宗教という別の強固な絆がある彼らの反感を買い、挙句に裏切られてしまってはたまったものではないからだ。
そうだ、たしか三河の一向一揆もそういう経緯ではなかったか?
「あまり危険なことはなさらないでください」
思わず漏らしたそんな言葉に、東雲は少し目を見開き、うっすらと紅い唇をほころばせた。
「なんや、心配してくれはるんですか?」
まるで冗談であるかのように笑い飛ばされたが、実際如章の暗躍を止めようと動いているのなら、安全とは程御遠いはずだ。
「武家が動けんのなら、我らの出番でしょう?」
実体のない勝千代のために、燃え落ちる寸前の長屋の側に立っていた姿を思い出す。
柔らかな印象の外見とは違い、彼の内には鋼の強さがある。
その強さが、如章の目の奥にあった憎悪と過剰な化学反応をおこさなければ良いのだが……。




