9-4
なかなか表には出てこない男なので、こうも至近距離で向き合うのは久々だ。
勝千代の意識がない間、彼にも気をもませていたようで、普段は表情筋の動きが少ない頬が若干こけて見える。
「お戻りくだされてようございました」
その言葉に一瞬どきりとしたが、段蔵が言っているのはおそらく、意識が戻ってよかったという意味だろう。
「心配をかけた」
周囲にこんなにも気にかけてくれる人たちがいるのに、どうしてふわふわと身体を離れようと思ったのだろう。
確かに、体調の事を気にせず自由に好きなところに行けるのは楽しかった。
見たくもないものも見せられたが、それでも、息切れもせず遠くまで行けるあの解放感は忘れられない。
いつかきっと、自由に歩こう。
春の野原を気ままに散策したり、そうだ、海を見に行くのもいいかもしれない。
それにはまず、この虚弱な体を何とかすることだ。
いちいちそれに水を差す、押し寄せてくる厄介ごとを早く解決してしまいたい。
「……報告いたします」
相変わらずの姿勢の良さで一礼して、居住まいを正す。
勝千代は段蔵のその几帳面な所作をじっと見上げて、さてどんな話が出てくるのだろうと頷き返した。
「混ぜられていたものは下剤でした」
勝千代の眉間にしわが寄る。
「効果は強いですが、持続時間は短く、毒物というよりも便秘薬のくくりで、ご婦人方によく処方されるものです」
下剤? そんなものを勝千代にのませてどうしようと言うのだ。
いや、あれ以上の脱水症状が進めば命の危険もあった。完全に無意味というわけではない。
しかし、本気で命を狙うのなら、下剤などという回りくどい手段を取るだろうか?
どうせ混ぜ物をするのなら、致死毒を入れても良かったはずだ。
「……殺すつもりはなかった、ということ?」
「標的はおそらく無作為です。たまたま若君の膳にあがりましたが、複数ある水瓶のうちのひとつだけに混入していましたので、誰の口に入っていてもおかしくありません」
なんだそれは。愉快犯か?
「気になったので、手の者に他の宿も調べさせました。おおよその所で似た薬が混ぜられていました」
「始末は」
「もちろん即座に」
だがしかし、よくある便秘薬なら簡単に新しいものを入手できるだろう。
水瓶の水が処分され、誰も引っかからなかったとわかれば、犯人はまた同じことをしようと試みるのではないか。
もしかして……と、如章のあの福々しい笑顔を思い出す。
同時に、残忍極まりない殺され方をした町人たちの事も。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
それは、唐突にたどり着いてしまった憶測によるものだった。
「急いで雨戸をあけ、襖戸もあけ……床も上げよ」
「若君?」
弥太郎が心配そうに顔を覗き込んでくる。
勝千代は身体に掛かっている布をめくり除けようとして、あまりにも重くて撃沈した。
「なりませぬ、まだ養生せねば」
着物ごときに負けて起き上がることもできないなんて!
不甲斐なさに唇を噛み、ゆるく肩を押さえようとしている弥太郎をキッと見上げる。
予想通りなら、一気に宿場通りに病人が増えるだろう。
「弥太郎」
「はい」
「身支度を。父上と、こられている客人に話がある」
東雲が言っていた。「疫病が出たと騒ぎ立てる」と。
人々が一斉に腹を下して寝込めば、何も知らない者は疑いもなくそう信じてしまうだろう。
通常の大人であれば半日で症状は和らぐとしても、勝千代のような幼い子供や年老いた者、日ごろから寝込みがちな体の弱い者ならどうなる?
重篤な疫病患者に見えるのではないか?
「せめてご説明ください」
「時間がない」
「若君、じき戌の刻になります。外はもう暗い。今から雨戸をあけ放つのですか?」
そうか、万事たちと戻って来た時にはすでに周囲は薄暗かった。
ならば雨戸も寝床もまだ片さなくてもいいか。だが、差し迫った状況だという事に変わりはない。
「わかった。ならば身支度を。東雲様はまだいらっしゃるか?」
「はい」
答えたのは段蔵だ。
「お話したいことがあるから、少しお時間を頂きたいと伝えて」
勝千代は弥太郎の反対を押し切って、一朗太殿のお下がりの直垂を着せてもらった。
顔色を少しでも小マシに見せるため、選んだのは明るい若草色の直垂で、それに合わせて手際よく小物の色も揃えられる。
乱れていた髪を整え、濡れ布巾で顔だけはきれいに拭いてもらうと、なんとか見れる程度には身なりが整った。
まともに立ち上がることすらできなかったので、自力で歩いていくのは諦めた。
そもそも、着せ替えの短い時間身体を立たせているのも難しく、支度が整う頃には熱が上がり始め呼吸が乱れてきた。
弥太郎にへばりつくようにして抱きかかえられ、なんとか部屋を出たものの、呼吸は荒く、吐く息が熱っぽい。
やはりやめておきましょうと何度も言われたが、黙って首を振った。
このままだと、あの恐ろしい焼き討ちと同じことが起こってしまうかもしれない。
寝込んでいる間に、勝千代自身が疫病患者だと難癖をつけられ、この宿場通りや父に災禍が及ぶようなことがあったら……
事が起こって後悔する前に、手を尽くしておきたい。




