9-3
改めて重湯が用意された。
今度は安心安全の弥太郎製だ。
普段であれば重湯など腹の足しにもならないが、ひと匙ひと匙が重い。
白粥まではとてもたどり着けそうにない。
「もう少し」
スパルタな弥太郎が唇に匙を近づけてくる。
塩気のある重湯が唇から少し入って来るが、これ以上は無理だ。
「あと一口がんばってください」
さっきもそれ、言ったじゃないか。
小さな茶碗に少量の重湯。
あれだけ腹が減っていたのに、実際喉を通ったのはこれだけだった。
せめて白粥、固形物を食べておきたかったが、重湯のとろみですら飲み込むのに時間がかかる。体力回復までの道のりは遠そうだ。
食事ともいえないような食事を済ませ、更に薬湯を飲まされて、腹の中がタプタプになった。
これ以上は無理。逆流する。
顔色で言いたいことが分かったのだろう、父の大きな手が勝千代の頭をそっと撫でる。
客が来ていることはすでに告げられていた。
公家の、身分ありげな客だ。本来であれば待たせるなどとんでもない。
しかし父は、勝千代の食事が終わるまで頑として側を離れようとしなかったし、東雲は長時間待たされても良いと答えたそうだ。
東雲は雅号だ。
本名は答えてくれなかった、と二木は報告していた。
言ってもいいのかな、藤波さんだって。隠しているのなら言わないほうがいいのだろうか。
しかし、たとえばその名前がものすごく有名なもので、誰もが知っている身分なのだとしたら、知らないことがマイナスに働くかもしれない。
いや待て。肝心なことを忘れていた。
勝千代がそれを知っているのはおかしいじゃないか。
つい先ほどまで生死の境をさまよっていた幼子から、その間に知り合ったのだと男を紹介されても、理解に苦しむだけだろう。
「それから……」
二木はちらりと勝千代を見て、言葉を濁した。
「万事が女を買ってきやがりました」
言い方! しかも全然濁せてないし。
「……なんだと?」
女じゃなくて女の子。しかもまだ10歳にもなっていない女童だ。ちゃんとそのことは伝えなければいけないはずなのに、二木は華麗にスルーした。
当然父はいい気持ちにはならないだろうし、もちろん二木は、その感情を引き出したくて言ったのだ。
あいかわらずのトラブルメーカーだ。
「女の子?」
仕方がないのでフォローする。
「どこの子? 武家?」
「い、いやな、お勝、その……」
気の毒な父がしどろもどろになって言葉を探す傍らで、二木は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「本当かどうか怪しいものですが、ナツとかいう名前で武家の出だそうです」
「ナツ」
「そうだお勝、父は客人に会いに行かねばならん」
父が露骨に話を逸らしてきた。
わかりやすいその態度に、口角を上げずにいるのに苦労する。
「はい」
「いい子で待っておれ」
「はい、父上」
もちろんいい子なので、ちゃんと待っているとも。
ところで二木。ニヤついているところ悪いが、頼みたい事がある。
父と一緒に部屋を出ていこうとしたところを、視線を向けて引き留めた。
「そのナツという子にきちんとした身なりをさせてあげて」
なんで俺が、と言いたげな二木に、にっこりと笑みを投げかける。
わかってるよね、と言外に圧を掛けると、その爬虫類顔が露骨に嫌そうなものになった。
「費えは立て替えておいてね」
「はぁっ?!」
わざと万事が不利益になるような言い方をしたのだ。本人にもその自覚があるはずだ。
ただ、勝千代が気づくとは思ってもいなかったのだろう。
「万事もわたしも銭などもってないし」
「いや、何で」
「頼んだよ」
あどけない女の子を花売りのように言ってのけたのだから、ちょっとばかり懐が痛もうと自業自得というものだ。
持ち合わせがないと泣きついてくる可能性もあるが……そうなったら代わりに何をしてもらおうか。
ちょっとばかり黒いことを考えながら、表面上はあどけなくにこにこと微笑む。
「古着でいいけれども、適当なことはしないように。武家の女の子だよ」
この男の場合、具体的に指示しておかないと好き勝手に動くのだ。
「身支度が終わったら、父上に顔を通しておいて」
ちゃんとした預け先が決まるまでは、勝千代らと行動を共にすることになるだろう。いつまでも花売りの少女だと思われるのは可哀そうじゃないか。
「……まさか、お側にあげるおつもりですか?」
細い目を糸のように眇めながらそんなことを言われて、小首をかしげる。
側に? 誰の?
本気できょとんと目を瞬かせていると、「ごほん」と弥太郎が咳払いした。
「若君はまだ数え六つです。一度も対面したことのない女子相手にそのような事は」
「わからぬではないか。殿への献上をお考えかもしれぬ」
まさか勝千代自身、あるいは父の側女にしようとしていると思われているのか?
失笑しそうになったのを、手で口をふさいで堪えた。
気の毒な女童の様子を知っているので、そんな疑いを抱かれるなど想像もしていなかったのだ。
直接彼女を見ていてそんな妄言を吐くとは……むしろこの男のほうが、実は幼い子が好みだとか?
「万事が連れてきた子なんだろう? そんなことはしないよ」
笑われている意味はわからなくとも、笑われるのは不愉快なようだ。
ものすごく渋い表情になった二木にもう一度、「頼んだよ」と駄目押しをする。
渋々と去っていくその背中が襖の向こうに消えるまで見送って、勝千代はもう一度、二木の表情を思い出して含み笑った。
「ご気分が良いようですね」
「……まあね」
勝千代が笑うと、見上げた弥太郎の顔も嬉しそうにほころぶ。
「少し横になって休みましょう」
「身体がべたついて気持ち悪い」
「清拭はもう少し体調が戻ってからですよ」
そう言われるのはわかっていたので、長い溜息で答える。
横にしてもらいながら、近くにある弥太郎の顔をじっと見上げた。
「……段蔵」
弥太郎の表情は笑顔のままピクリとも動かなかったが、瞬き数回分の間の後、コツンと天井で音がした。
「報告を」
いい子だからちゃんと部屋でおとなしくしているとも。
ただし……何もするなとは言われていない。
弥太郎が布団代わりの着物を襟もとまで掛け、丁寧に袖などのしわを整える。
今の時代はまだ綿がないから、普段着てる小袖などを重ねて掛布にするのだが、十分な暖を取るためには何枚も重ねなければならず、その分ものすごく重い。
弥太郎がせっせとその重量を増やしていく間に、いつの間にか、枕元には段蔵がいた。




