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父の大号泣が聞こえたのだろう、真っ青な顔で二木が部屋に戻って来た。
急いでいても所作が礼儀正しいのは彼らしいが、紙のような色をしていた顔が、たちまち安堵にゆるむのを見て、「ツンデレかこいつ」と場違いな感想を抱いた。
二木に向けられていた視線が、ぐぐっと寄ってきた父の顔面アップに大半を奪われる。
「何が食べたい? 粥か?」
がっつりステーキ食べてスタミナつけたい。
身体が絶対に受け付けないであろうものを想像し、ぐうと腹が鳴る。
「まずは重湯ですね」
勝千代の状態を確認していた弥太郎が、若干やつれて見える顔に普段通りの微笑みを浮かべて言った。
そんなひどい。飢えた子供に米の上澄み液しかくれないの?!
もちろん口に出しては言わないが、表情を読み取ったのだろう弥太郎が、眦にしわを寄せる。
「もう少しお口にできるようでしたら、白粥もお持ちしましょうね」
柔らかくした白米の甘味を思い出し、ふたたび空腹で腹が痛んだ。
この飢餓感は久しぶりだ。
意識を失って何日経つかわからないが、点滴などがない時代だ、食べ物を口にできないという事は、死が迫っているという意味でもあるのだろう。
人間が水だけで生き延びられるのは二週間だというが、勝千代のように体力のない子供なら、その期間はもっと短いはずだ。
危ないところだった。
戻ってみてわかる。いくら水を含ませてくれていたとしても、絶対的に水分量が足りていない。
脱水症状だ。
口の中がパサパサ、喉まで干上がった状態で、視界に若干の紗が入って見えるのもそれが原因だと思う。
弥太郎が陶器製の吸い口を差し出してくれ、少量ずつ馴染ませるように口にする。
飲んでも飲んでも、水が喉を通った感じがしない。
干からびた咥内が直接吸収しているのだろう。
水だけで腹を満たすわけにいかないからと、吸い口が遠ざけられてもなお、口の中は乾きパサついていた。
秒速で重湯が用意され、運ばれてくる。
持ってきたのは土井だった。
父の懐に抱え込まれるようにして身体を起こし、待ってましたと開いた襖の方を見て、二木もそうだったが土井もまた、真っ赤に潤んだ泣きそうな顔をしていることに気づいた。
父だけではない、皆に心配をかけてしまったのだ。
お気楽に散歩と洒落込んでしまった、数時間前の自分に反省だ。
持ってこられた湯気が立つ椀を、弥太郎が匙でかき回す。
冷ますのが目的かと思ったが、違ったらしい。
彼は湯気に鼻を近づけ、少し匂いをかぎ、重湯に口をつけた。
岡部の城にいるころから続く習慣のひとつ、毒見だ。
今はそんなことをする意味などないはずだと、早く腹を満たすものが欲しくてそわそわしていたのだが、弥太郎は何故か、匙ですくったすべてを口に含む前に動きを止めた。
「……この重湯を用意したのは?」
「え?」
椀を運んできた土井が、ひやりとした表情で身を引いた。
「少量ですが、何か混ぜ物があります」
「そ、そんな!」
父も勝千代も土井と同様に驚愕したが、もっとも過剰な反応を見せたのは二木だった。
「待て!」
父の制止に、二木は素直に動きを止めた。
抜かれた脇差しの切っ先が、土井の首筋から手のひらひとつ分ほども開いていない距離にある。
父が止めなければ、何の躊躇もなく土井の首を刎ねていただろう。
土井は黒光りのする床に後ろ手をついて、真っ青な顔で抜かれた脇差しを見上げている。
勝千代の目にはとらえることができない速さだった。
土井には見えていたのだろうか。いや、たとえ見えていたとしても、何かができたとは思えない。土井は脇差しに手を掛けようともしていないのだ。
「重湯を用意したのは誰ですか?」
弥太郎が再び問いかける。
二木に切っ先を突き付けられたまま、土井の喉ぼとけが大きく上下した。
「や、宿の主人が……」
糸のように細い二木の目が、更に険悪に吊り上がる。
「若君のお口に入るものを、余人に用意させたのか?!」
いや、別にそれでいいんだけれども。
なんなら父も二木たちも宿で出される料理を普通に食べていたはずだ。
だが土井はそうは思わなかったようで、突き付けられた脇差しなど構わずガバリと平伏した。
「申し訳ございませんっ!!」
謝らなくていい。悪いのは何かを混ぜたヤツの方だし、事前に分かったのだし。
「申し訳、申し訳ございませんっ!!」
ゴツンゴツンと額を床にぶつける音がする。
いや、何回も謝らなくてもいいんだって!
喋るのも億劫な勝千代が、そんな風に感じているなど誰も思っていないのだろう、室内の雰囲気がどんどん物々しいものになっていく。
父は何も言わず険しい表情で黙ったままだし、二木も脇差しを引かない。
土井はひときわ盛大にガツンと額を床に叩きつけた。
「ご処分はいかようにも!!」
しょ、処分?!
腹が空きすぎて死にそう、だなどと明後日の事を考えていた勝千代だが、聞き捨てられない言葉が出てきてぎょっとした。
「土井」
なんとかひねり出した声で、土井の名前を呼ぶ。
「は、はいっ」
手招くと、ちらりと鬼瓦のような父の表情をうかがってから、土井がじりじりと近づいてくる。
いや、そんなに離れていたら手が届かないだろう?
もう少しこっちへ、と更に手招くと、ゴクリ、と再びのどぼとけが上下して、それから覚悟を決めた様子で手が届く距離まで近づいてきた。
ちなみに、父の膝の上に抱きかかえられている状態なので、勝千代に近づくという事は、父と距離を詰めるという事だ。
真っ青な顔をした土井が、父の膝先に当たるほどの距離で平伏する。
早くもたんこぶになり、赤黒く血がにじむ額に手を伸ばそうとしたが、届かない。
手足の短さを痛感しながら、何とか届いた元結の根元をそっと撫でた。
「……痛そう」
「い、痛くはありません。まったく痛くはありません」
焦っているのか呂律が回っていない。
「今すぐ痛みなど感じないようにしてやる」
やめなさい。
勝千代は、過激な二木に呆れの目を向けてから、もう一度土井の頭を撫でた。
今すぐ宿中の者を集めて話を聞くべきだ。そういえば、身体に戻る前に見た商人、あの男の様子も、どこかおかしかったように思う。
この部屋を伺い、毒を混ぜる機会を待っていたのかもしれない。
勝千代はこてりと首を傾け、いやまて、とよくよく考えてみた。
混ぜ物があったのは重湯だ。病人でもない限り、普通は口にしない。
つまり、ピンポイントで勝千代を狙ってきたのだ。
何故だろう……
ぐう
真剣に考えている最中なのに、盛大に腹が鳴った。




