8-5
駆け寄ってきた万事は、ふうふうと威嚇するネコ科の猛獣のように東雲を睨み、素早く勝千代の腕を掴もうとした。
もちろんすっぽ抜ける。
唖然としたのは一瞬で、次は東雲と勝千代との間に身体を割り込ませ、つまり東雲を突き飛ばして遠ざけようとした。
あ。
勝千代の口がぽかんと開く。
いつの間にか、薄灰色の狩衣を着た集団が周囲を取り囲んでいた。
万事は勝千代の足元で、声も出せない状態で押さえ込まれている。
東雲が軽く扇子を振ると、後ろ手に万事の腕を掴んでいるひとり以外が退いた。
万事は鋭く息を吸って何か言おうとしたが、ギラリと鋭い太刀を突き付けられて喋れない。
「今日は変わったもんとよう会いますなぁ」
パチン、と扇子を閉じると同時に、口元数センチのところにあった数振りの刃が下げられた。
「ここまではっきり見えるのは、ほんに珍しい」
さらにもう一回扇子が鳴ると、太刀はすべて鞘に納められ、男たちが片膝をついて頭を低くする。
なにあの扇子、すごい。
もちろん東雲が命令を下したのであり、扇子にそんな機能はついていない。
そうとわかっていても、つい目を丸くして見てしまう。
「オヤジさんが泣いとるぞ」
そんな勝千代の呑気さに業を煮やしたように、万事が唸った。
「なんでこんなところでうろついてんだ!」
「それはまあ、わたしもお聞きしたいところですねぇ」
勝千代ははっとして万事を見た。
そして同時に、周囲の戸惑いも強く感じ取った。
そうか、他の者には勝千代が見えていないのだ。
万事が怒鳴りつけたのは、東雲に対してと思うだろう。
それはちょっと……面白いかもしれない。
「歩きながら話しましょか」
東雲は口元を扇子で隠して、あきれた目をこちらに向けた。
万事は腕を引かれるようにして立ち上がり、強く握られていた手首を軽くさすった。勝千代を見て、東雲を見て、もう一度勝千代を見てから頷く。
いつの間にか、十人近くいた灰色の狩衣の男たちは、万事の真後ろにいる一人を残して姿を消していた。
段蔵に近い動きだ。
「これは……どういうことだ?」
万事の問いかけに、東雲は例の「ものすっごい」笑顔ではなく、最初に勝千代が見た、ぺかりと眩しい微笑みを浮かべた。
「この世には、説明しようがない事はようさんある」
今のこの状況、幽体離脱もそうだが、そもそも勝千代の中に四十路の男が入り込んでいる事象も不思議だ。
勝千代は何度も頷き同意する。
「疫病の事は聞いた?」
「……宿場通りは大騒ぎだ。今のところはまだ噂程度だが」
「そなたは何故ここへ? 主人の側にいるべきではないか?」
いや、うちの父が主君というわけではないからね。
勝千代が首を左右に振り、万事も同様に微妙な表情でいると、東雲は再び良くわからない、といった表情で首を傾げた。
おそらくだが万事は、仲間たちに町を出るよう伝えに行ったのだろう。
サンカ衆は山だけではなく、町中にも根を張って暮らしていると道中で聞いた。
「予想やけど、次は商人たちを的にしようとするやろね。金にがめつうてなぁ」
「ちょっと待て、足が速い」
そこに万事が気づいてくれたのが意外だった。
大人二人の歩幅に追い付くべく、とにかく必死で身体を前に進めなければならなかった。
歩く労力は必要ないが、歩く速度は極めて遅いのだ。
「えろうすいません。ほれ、だっこしましょ」
いやいやいや。
勝千代のほうからは触れないが、何故か独特の方法で東雲には捕獲できる。
あまり気持ちのいいものではないし、そもそも「だっこ」なんて……
ぶんぶんと首を左右に振って東雲から距離をあけようとしたのだが、完全に逃げ出す前に万事に退路を塞がれた。
ひょいと両脇に手を差し込まれ、持ち上げられる。
さっきは触れなかったのに!
「おやまあ!」
東雲が感嘆符付きの驚きの声を上げたが、勝千代も本気でびっくりした。
「そなた、神職にならへんか?」
「……は?」
もはや諦めの境地でされるがままになっていると、東雲より頭ひとつ分ほども大柄な万事が困惑した表情になった。
それはそうだ。彼はサンカ衆、つまり野盗だ。いくら身なりが多少マシになって、無頼者に見えなくても、おそらくは生まれた頃から、いやその親の親もサンカ衆だろう。
そんな生粋の山の民に、神職にならないかと勧誘するとは。
実際のところ、今の勝千代が見えて触れる時点で、そういうモノへの親和性が高いのだと思う。
自然信仰という意味では、まあなくはないと感じるのは勝千代だけで、今のこの時代、血という穢れで染まった万事を神職として受け入れることは難しいはずだ。
「とにかく、この子は早ように親御さんのとこに戻りはったほうがええ」
本気ではなかったのか、すぐに話はそらされて、東雲は真剣な表情で万事を見上げた。
「……戻れるのか?」
「身体とのつながりが消えとらんかったら、それほど難しゅうない」
「消えてたら?」
万事の押し殺した問いかけに、東雲は無言で微笑む。
そんな悲しそうな顔をしなくても大丈夫。目には見えなくても、肉体にはまだつながっているのが感じられる。
「なにかの拍子につながりが切れてしもうたら、もう戻るのはむずかしいやろな」
え? 安易にすぐ戻れると考えていたのは間違いなのか?
「急ぐぞ」
勝千代は抱き上げられた状態のまま、足早に運ばれた。




