8-3
勝千代は、土気色をした若い母親の瞼をそっと撫でた。
もちろん、実体が無いので触った感じはしない。
しかし、カッと見開いていた母親の目は、勝千代の小さな手が触れると、眠るようにその薄い瞼を下ろした。
寄り添うように死んでいる赤ん坊の頬にも触れてみる。
母親と同じように土気色をしたその頬は、真っ白だったあの凍傷の手と同じぐらいに冷たいのだろうか。
立ち上がり、一気に燃え広がった炎を至近距離で見上げる。
肉体が無いので、飛んでくる火の粉にも痛みは感じない。
振り返ると、東雲は先ほどと同じ所から勝千代を見ていた。
彼のいる場所にも、かなりの熱が伝わっているだろう。
火の粉が飛んできたのか、その真っ白だった狩衣の袖が少し煤けている。
勝千代はバキバキと音を立てて燃えていく長屋の横を通り、元来た道を引き返した。
実体のない四歳児のために、危険なほど炎に身をさらしている男は、扇子で口元を覆ったまま勝千代を待っていた。
白い狩衣の袖が、ばたばたと熱風にはためいている。
「……ほんに面白い」
この大勢の死体を見てそういうのかと、むっと顔をしかめたが、どうやらそれは違ったらしい。
東雲はじっと勝千代を見て、実体のないその頭を撫でようと手を伸ばした。
もちろん数歩下がって逃げたけど。
「お送りしましょう。ここへは長居せんほうがいい」
いや、その前にするべきことがある。
勝千代はきっぱりと首を左右に振った。
「早く戻らねば」
重々承知しながら、もう一度首を振る。
「……何かほかに御用でも?」
東雲のその問いかけを待っていた勝千代は、まずは人々の死体を、次いで燃え盛る炎を指さした。
「?」
何度もイヤイヤと首を振り、駄々っ子のようにあの母子を、崩れ落ちる寸前の長屋を指し示す。
「……場所を変えましょう」
やがて何かを察したのか、東雲はこちらを促して歩き始めた。
どれぐらい歩いただろう。
火は遠ざかり、火事だと叫ぶ人々の声も聞こえないところまでやってきた。
お寺とは逆方向、川が見える高台方面だ。
「勘違いならすいません」
京都風のイントネーションははんなりと柔らかい。
しかし、振り返った東雲は、口調以上に雄弁な鋭い眼つきでこちらを見た。
「疫病の事をお聞きになりたい?」
もちろんそうだ。
あそこで疫病が出たと言い出したのは誰だ?
それをただの流感ではなく、通りひとつ潰さなければならないと判断したのは誰なんだ?
寝込む前の最後の記憶をたどってみると、ここはおそらく駿河ではなく遠江だ。今川家の勢力範囲内だが、有力者である朝比奈家が差配する地域だったと思う。
父の城へ向かう途中、勝千代が倒れてしまったので、急遽ルートを外れ大きめの町で療養することになった。
最初の旅程には入っていない町だし、そもそもこんなに長く滞在する予定でもなかった。
イレギュラーな出来事だったから、あらかじめここで罠をはっていたとか、そういう事ではないだろう。
父と朝比奈家との関係がどうかは知らないが、安易に福島家当主に手を出そうとするとも思えない。
すべてを企んだ何者かと手を組んだ可能性はあるが、それよりも、地方の小役人を買収した可能性のほうが高いのではないか。
「わたしは本願寺派がまたひどい事をと思うておりましたが」
本願寺? なに?
東雲の吐き捨てるような口調に、思わず怯む。
ああそうだ思い出した。三河の一向一揆で本願寺という名前が出てきた気がする。
ほぼ勉強した覚えがない時代の事だから、記憶の引き出しを逆さにして振っても出てくるのはこの程度のものだ。
「そうですよ。寺の坊主どもが疫病が出たと騒ぎ立て、この町の名役が火付けに許可を出しました」
本願寺。そこが父を狙っている?
一族のことだけでも頭が痛いのに、そこに宗教が絡むなど……嫌な予感しかしない。
「なんとか止めようとしたのですが、力及びませず」
東雲以外にも、神職が何名かこのあたりに派遣され、最近目に余る行動が多い彼らを止めようと試みてはいたようだ。
止めようとしたのか。
ただ言葉でそう聞いただけだから、真偽のほどは定かではない。
しかし勝千代の中で、東雲への好意値がほんの少しだけ上がった。
「この町は朝比奈さまよりも本願寺派の勢力のほうが強いのです。御身なりから言うて、お武家の若君でしょう? 難癖をつけられる前に戻ったほうが良い」
難癖と、そういい捨てる口調がかなり鋭い。
対照的に、勝千代の頭を撫でようとする手の動きは優しく……優しく?
「つかまえた」
ひいいいいいいいっ
東雲の手は勝千代の頭を撫でようとしたのではなく、鷲掴みにしていた。
実体はないのだからと逃げようとしてみたが、まるでその場に釘付けにされたかのように動けない。
「わたしが見つけてよかった。このまま戻れんようになるとこでしたよ」
まるで迷子の子供に対するような言い草だ。
……あながちそれが間違っていないところが腹立たしい。
勝千代は、大きな手で頭を掴まれたまま、すぽん、とちょっと意味不明な音を立てて宙に持ち上げられた。
気づいた時には、東雲の手のひらの上に座っているという、更に訳の分からない状況に。
「東の宿場通りでしょう? お武家がひと棟借り上げたと評判です」
実体があるわけじゃないのに、その不安定な場所と高さに怖くなる。
とっさにしがみつこうとしたのは、すっと高く立った黒い烏帽子だ。
普通に持ち上げられたので、普通に「落ちるかも!」と思ったのだが、当然のように烏帽子は支えにはならず、勝千代の小さな手は何にも触れずすっぽ抜けた。




