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「東雲と申します」
そう言って丁寧に一礼するのは、二十代前半、あるいはもう少し年が行った雰囲気の痩身の男だ。
この町で見かけた人々とはあきらかに毛色が違い、光沢がある銀色がかった白地の狩衣に、濃い紫に丸い模様のある袴。木製なのだろう沓まではいている。
「あ、どうも」とあいさつしようとして、声が出ない事に気づいた。
それはそうだ。今の勝千代には口がないのだ。
「今日は良い天気でございました。明日も晴れるとよろしいのですが」
京都弁の独特のイントネーションで朗らかに挨拶をされ、満面の笑みを向けられる。
ま、まぶしい。
どう言えばいいのだろう、真っ白な歯がキラリと光ったような爽やかさ?
百人いれば百人、その善性を疑わないだろう微笑みは、何故か逆に、ものすごく怖いもののようにも感じられた。
本能的に距離をあけたくなったが、そうすることがまるで悪い事のような気さえする。
「この辺ではお見掛けせぇへん方ですね。どないしはりました?」
どう説明しろと?
今の勝千代には口がなく、直接ものを伝えることができない。
ふと、「小さくて大きくてひとりで二人」と表現されたことを思い出し、まさかそんな不気味な見目をしているのだろうかと自身の身体を見下ろしてみる。
そしてまた、口だけではなく身体もないのだと思い出した。
勝千代自身の目にも見えないのに、この男には見えるのか?
いぶかしく思いながら顔を上げると、東雲はすっと滑らかな足取りで近づいてきて、勝千代の前で片膝を落とした。
「まだお身体は生きておいででしょう? 長く離れているのは良うありません」
指の長い、大きな手だった。
そしてそれに触れられるのには、真冬に背中に氷を落とされそうになったかのように、ぞわりとした忌避感があった。
「おや」
距離をあけた勝千代を見て、東雲の形の良い唇が弧を描く。
まるで女性のような、いや、見間違いじゃなければその唇には薄く紅が刷かれている。
所謂おねぇとか、そっち系の人かな?
それとも、男でも化粧をするような文化があるのかな?
いくぶんおどおどしながらそんなことを思い、更に数歩下がる。
「逃げられたら捕まえとうなるのは本能やろうか」
ぞわわわわっと全身に鳥肌が立った。
身体が無いのでもちろん比喩的に、それぐらい気持ち悪かった、という意味だ。
脱兎のごとく逃げ出した背後から、邪気のない澄んだ笑い声が追いかけてくる。
この、さわやかさと気持ち悪さの両極端な感じを何と表現すればいい?
おそらく東雲は神職だろう。
化粧云々はさておき、現代の日本でも通じる装束でそうとわかる。
いや、もしかしたら公家か? 今の時代は直垂と肩衣袴と狩衣が同時にあるような時間線なのか?
どちらにせよ、あまりお近づきにはなりたくなかった。
下手をしたら、小さな勝千代ごとあっさり「あの世」へと祓われてしまいそうだ。
逃げ出したのは、太陽が沈んでいく西の方角。
空はオレンジ色に染まり、翌日の晴天を暗示する見事な夕暮れが町を包んでいた。
まばゆいばかりの猩々緋が支配を増し、落日までのわずかな時間を鮮やかに染め上げている。
そんな中、必死に逃げているのに、本来の身体能力に批准しているのか速度はものすごくゆっくりで……笑い声がずっと背後から聞こえていた。
やめて、怖いから。
追いかけてこないで、マジで。
半泣きになりながら逃げる幼児(幽体)に、呵々と笑いながら追う神職。
傍目にはただ上機嫌な東雲の散歩ぐらいにしか見えないのだろうが、もしこれが現実だったら案件だ。父が真っ赤な顔で激怒するだろう。
ああそうだ、父だ。父のところに帰りたい。今なら二木にだって万事にだって愛情をこめてハグするのに!
「あ、そちらには近づかんほうがよろしいですよ」
半泣きどころかガン泣きしながら逃げ続けていると、ふとそんなことを言われた。
先程鐘が鳴っていた寺の門前、広い道は踏みしめられた固い土だ。そこを横切り、町の反対側の細い通路へ逃げ込もうとして……
口がないから声が出せない。
身体が無いから姿が見えない。
それなのにどうして、この臭いだけはわかるのだろう。
濃い朱色の夕焼けの中、その赤さは同系色で馴染んでいた。
悲鳴も、苦痛の声も、何も聞こえない。
むしろ幾つか通りを挟んだ向こうの、子供の笑い声のほうが良く響いた。
そこに転がっているのが大量の死体だと理解するまでには、かなりの時間が必要だった。
いったい何人が死んでいるのだろう。
十人二十人ではきかない。
細い裏路地を埋め尽くす死体の山を前にして、すっと血の気が下がってくる感覚があった。
肉体がないのだから、貧血などするはずもないのに。
「……なんと」
東雲は手に持っていた扇子を開き、さっと顔の下半分を覆った。
「ひどい穢れじゃ」
大人も、子供も、女性も、年寄りも……ああ、なんてことだ。赤ん坊までいるじゃないか。
勝千代はふらふらと、赤子を抱いて息絶えている若い母親の側に近づき、膝をついた。
ひどい臭いだ。
そこら中に血や腸やバラバラになった手足が飛び散り、死体がまるで物のように積み上げられている。
正視できない有様だった。
目をそらしたくなるほど、穢され切った情景だった。
少し前までは、ごく当たり前の平和な風景の中にいた人たちなのに。
それぞれの人生を、愛する人たちと歩んでいただろうに。
こんな風に、無残に殺されなければならない謂れなどあったのか?
ごう、と聞いた事のない音がした。
顔を上げると、そこかしこから炎が巻き上がっていた。
……どうして、どうしてこんな。
「疫病やそうですよ」
東雲は路地の少し手前で立ち止まり、声がギリギリ届く距離から近づいてこない。
「延焼を防ぐために長屋をいくつか壊すと聞きました。あとは風向きが安定するのを待つと。病人は隔離したと言うておりましたのに」
……疫病?
この辺りは数時間ほど前に勝千代も見て回った地域だ。家の中のことまではわからないが、誰もが皆元気そうだった。
本当に皆殺しにしなければいけないような状況だったのか?
「早くお戻りになったほうが良い。疫病患者やと思われたらお困りでしょう」
勝千代はっと顔を上げた。
東雲は、扇子で顔の下半分を覆ったまま、燃え上がる下町の密集した木造家屋をじっと見ていた。
そうだ、父たち。
見るからに立派な宿に宿泊していたから、この下町とは違うエリアだと思う。
疫病の処置のためと言われても、発症していないうちから命を差し出したりもしないだろう。
だが、疫病に違いないから勝千代を殺せと言われたら、父はどうする?
下町の通りをひとつ殲滅させるほどの疫病が出たのに、我が子可愛さに拒んだなどと言われたら……今は良くとも、後々には進退問題に発展するのではないか?
薬篭のことといい、次々に起こるトラブルは偶然だろうか。
……いいや、違う。
どこかの誰かが、父を陥れるために疫病をでっちあげたのではないか?
ただそれだけのために、無辜の人々を虐殺したのではないか?
一度そんな疑惑を抱いてしまえば、もはやそれが答えだとしか思えなかった。




