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加筆しました。ご迷惑をおかけしました。
ええっと……どうしてこんなことになってるんだ?
さめざめと泣くのは父。
髭面の大男が、両手を床について号泣する様など、よほどの特殊性癖者じゃない限り見たくもないだろう。
「ううっ、う、う、う……」
獣のように唸り、黒光りする床にぼたぼたと涙を落とし、蓬髪をぐりぐりと押し付けている先に眠るのは、青白い顔の幼い子供……ああ、勝千代か。
――え?
そこで初めて、おかしいことに気づいた。
何故なら、勝千代は今、父の背後からこの様子を見下ろしているのだ。
よくよく見れば、横たわる子供の瞼は閉ざされている。
……じゃあその様子を見ているのは誰? どういう状況?
覚えている最後の記憶をさらってみる。
岡部の城を出て、数日雪中を歩いた。いや、歩いたのは勝千代を抱き上げた父なのだが、それでも辛い行軍だった。
案の定そう遠くいかないうちに熱を出した。最初はそれでも意識があったのだ。道中の焚き火や、サンカ衆の小屋での宿泊など、楽しいことも多かった。それがいつから……
そうだ。
雪ではなく、雨が降り始めた日だ。
雨がやがてみぞれに代わり、日が落ちたらさらに気温が下がるから屋根のある場所を探そうと言っていたあの日が最後だ。
おそらくは高熱を出し、そのまま意識を失くしたのだろう。
キョロキョロと周囲を見回してみるが、見知らぬ部屋だった。
岡部殿の城でも、かつて勝千代が住んでいた父の城でもない。
豪華ではないが、質素というわけでもなく、二十畳ほどの広さがある板間だ。
締め切られた襖の外はどうなっているのだろう? ふとそう思っただけで、すうっと視線が動いた。
風雪の傷みを感じさせる木戸にすごい勢いで接近し、ぶつかる! と思った瞬間、ぬるりと通り抜けてしまった。
――ええー
困惑したまま首だけ出して見た屋外には、子供の頃に行った映画村のような町並みが広がっていた。
この部屋は二階らしく、広い大通りに面していて、まだ昼過ぎらしく大勢が行きかっている。
勝千代は、中途半端に雨戸にめり込んだ状態で、暗い室内を振り返った。
廊下に控えているのは土井と二木だ。
ふたりとも言葉を交わすことなく、沈痛な表情のまま顔を俯けている。
特に二木のそんな表情が意外で、思わずぐるりと身体の向きを変え彼の顔を覗き込んだ。
わかったのは、誰も勝千代の姿を認識できていない、ということだ。
顔の前で大きく手を振っても、二木の視線は動かない。
――なるほど。
二木だけでなく土井でも一通り試してみてから、どうやら誰の目にも見えていないようだと結論付けた。
また死んでしまったのか?
廊下まで響く父の号泣に引き寄せられて、再び締め切られた部屋へと意識を戻す。
改めて見る自身の身体は、巨漢な父を前にするとことさらに小さく見えた。
ああ、あんなにぐりぐり頭を押し当てたら潰れてしまうのではないか。
横たわる子供は、本人の目からしても儚げで、今にも消えてなくなりそうだった。
「父が、父が悪かった! だからどうか……」
延々と繰り返される泣き事は、聞いている方がつらい。
枕もとに控えている弥太郎を見てみると、いつもの温和な表情ではなく、こちらも悲し気な表情をしている。
勝千代は首を傾げた。
やはりまた死んでしまったのだろうか?
いや、何故かそうではないとわかっていた。
強い引力のようなもので、薄いあの身体に引き寄せられる感覚がするのだ。
すぐにも戻れるのだと、本能的に察していた。
これが、俗にいう幽体離脱というものだと理解し、真っ先に感じたのは好奇心だ。ほんの少しだけ、悪戯心もあったかもしれない。
心配する父や、周囲の大人たちの気持ちはとりあえず脇に置き、ぬるりと壁を通過する様が面白く、ホラーゲームの幽霊にでもなった気分で、あちこちに顔を出してみる。
廊下に控えているのは土井と二木だ。
段蔵は天井裏でも背筋を伸ばした正座だった。
万事と南とほかの何名かが、一つ部屋をあけた隣で身体を横にして目を閉じている。不寝番の交代要員だろうか。
もっとも興味を引かれたのが外だった。
最初の頃に勝千代が望んだ、比較的大きめの町が眼下に広がっている。
時刻は昼を少し回ったところか。
町並みに雪はなく、晴れているから外に洗濯物がはためいていた。
どれも草木染をしたような色合いの、固そうな生地の着物で、中には黄ばんだ下帯や赤ん坊のオムツなんてものもある。
井戸端で遊ぶ子供たち。
大きな口をあけて笑うその母親たち。
大工らしき男が太い木材を肩にかけて運び、物売りらしい男が、天秤の前後にからの籠をつけて歩いている。
平和な町の、平和な人々の日常がそこにあった。
あまり遠くに行ってはいけないと思いながらも、つい好奇心の向くままに周囲を探索する。
こういう町へ来るのは初めてだし、思えば勝千代になってこの方、気の向くままにぶらぶら散歩した事などなかった。
何しろ寒すぎて、体調も悪すぎて、長時間外出できるような状態ではなかったからだ。
しかし肉体の縛りのない今、どこまでも自由に行けた。
寒さは感じない。どんなに早く走っても、息切れひとつしない。
それは思いのほか楽しい経験だった。
時間を忘れるほど遊んでいたことに気づいたのは、冬の短い日差しが陰りを見せ始めてからだ。
まずい、と感じた時には、自分がどこにいるかわからなくなっていた。
ゴーンゴーンと鐘の音が聞こえる。
確か広い道沿いだったから、寺の門前から繋がっているかもしれない。そう思って、フラフラと鐘の音の聞こえるほうへ行こうとした。
「おや、どないしはりました?」
最初、自分に掛けられた声だとは思わなかった。
「そこの小さくて大きな方。二人で一人のようなお方」
ぱっと振り返ると、真っ白な狩衣? 合わせが見えない形状の着物を着た男性がこちらを見て立っていた。
勝千代は、今世では初めて見たかもしれない真っ白な装束にまず目を奪われ、次いで男の視線が紛れもなくこちらを見ていることに気づいて唖然とした。
……見えている? 今の勝千代を?
ここまで白い布地を見たのも初めてだが、前世今世通して、「そういうもの」が見える人と遭遇するのも初めてだった。




