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「びっくりだ」
「本当にそうですね」
勝千代がそう言い、土井が大きく頷く。
自身でも居心地が悪いのだろう、万事は周囲には聞こえないほどの小声で、もそもそと文句を言った。
「……うっせぇよ」
「言葉遣い!」
即座にぴしりと注意するのは二木だ。
万事は誰から借りてきたのか渋い色味の肩衣袴を身にまとい、あの特徴的だったひげをきれいに落としていた。
髪もなんとか結いました! という感じだが武士らしく元結を使って束ねている。
そしてやはり、想像通り若かった。
二十歳は超えているだろうが、まだ若干の少年っぽさが顔立ちに残っている。
「仕方がないから連れては行くが、絶対に人前では口を開かない事!」
二木の小姑のようなガミガミ具合に、言っている当の本人以外は皆うんざりした顔をしている。
万事は、薬篭の分の褒美はいいからと、こちらがきちんと約定を果たすか見張るために、同行すると言い出した。
他国への移動は春を待つこと、換金する荷は先に譲渡すること……などなど、いろいろと注文を付けてきたが、サンカ衆の残兵が思いのほか少ない、と段蔵が調べてきていたので、父は万事の要求を受け入れる事にしたようだ。
「怪しい動きをしたら、すぐにその首を刎ねてやるからな!」
「はいはいはい。わかってるって」
「なんだその言葉遣いはっ」
「……はぁ、耳が馬鹿になりそう」
「若っ!!」
キーンと鼓膜に突き刺さる声で、二木が怒鳴る。
彼の声は男性にしてはやや高く、怒っていると更に鋭さを増す。
勝千代は両手で耳を塞ぎ、くるりと明後日の方向を向いた。
「あ、父上」
これだけで、二木の小言がピタリと止まるのが面白い。
渡り廊下の向こうから、珍しくきちんと直垂を着込んだ父が歩いてくる。
この時代、身分が高いほど明るい色の直垂率が高く、下級武士になるほど地味色の肩衣袴だ。
装束の過渡期にあるのだと思う。
ちなみに勝千代は、一朗太殿から借りた若草色の直垂を身にまとっている。
「挨拶は済ませた。日が昇り切る前に支度をして出るぞ」
きちんとした直垂姿なのに、烏帽子をかぶらず、相変わらずの総髪。
この時代、身分はまず服装と頭を見て判断される。周囲が混乱しそうな父の身なりを、誰も注意しようとしないのは何故だろう。
そんなことを思いつつ、伸ばされた手に抱き上げられるのも慣れてしまった。
城を出たらもっと冷えそうだから毛皮が欲しい……などとは言い出せず、冷たい風を遮ってくれる壁(父)にぴったりとくっつく。
布越しでも、筋肉量が多い父の高い体温が伝わってくるのだ。
出立するといっても、もともと強行軍でこちらへ来ていたので、それほど荷物は持ち合わせていない。
下村が気を使って着替えなどを用意してくれ、曇天続きで洗濯もできず結構臭いがしてきた野郎どもを、少しだけマシにしてくれた。
その上から簡素な鎧を装着し、やはり臭いがきつい兜や、傷や欠けの多い脛あてなどをつける。
近くだと剣道部のような独特の男臭がするが、遠目にはなかなか見栄えがする。
身だしなみは大切だ。たとえ側に寄りすぎると思わず「うっ」と鼻をつまみたくなるにしても。
もちろん父も臭う。
言いたくはないが……勝千代も。
なにしろ、風呂なんてものは存在しないのだ!
もう何か月頭を洗っていないか……思い出しただけで痒くて涙目になってしまう。
探せば温泉とか蒸し風呂とかあるのだろうが、そもそもこの城にそういう設備はない。
夏は井戸端で頭から水をかぶるとか、川で行水したりもするが、冬は顔を洗うだけ……という、野郎どものとんでも話はともかくとして、城の女性陣、御女中や奥方たちはどうしているのだろう。
やはり、勝千代と同じように、濡れ布巾で拭うだけなのだろうか。
何より怖いのが、最近それに慣れてきた、ということだ。
人間は環境に染まっていく生き物なのだとつくづく思う。
かつては一日風呂に入らないだけで気持ちが悪かったが、下手したら勝千代くん、年単位どころか産湯以来湯につかっていないかもしれない。
なんと恐ろしい。
残存兵の動揺を避けるため、出立はひそかに行われた。
下村と一朗太殿が見送りに来てくれたが、その他はほんの数人だ。
不安そうな少年に別れの手を振って、ますます強くなってくる風に首をすくめた。
「寒いか?」
遠ざかっていく城を見ていると、父にそう問いかけられる。
勝千代は「寒い」と答えたいところをぐっと我慢して、小さく首を左右に振った。
芯まで冷えるこの季節に、寒くない日など存在しない。
たとえ日差しがある日でも、防寒着のない外出で寒くないわけがないのだ。
だが、風よけ(父)が居れば少しはマシになる。それで我慢するしかない。
ちなみに、全員歩き、徒歩である。
馬などという便利な移動手段はここにはない。
実際のところ、この時代にどれぐらい騎馬なるものが存在したのか疑問だ。
何故なら、農耕用の馬でさえ、一度も目にしたことがないからだ。
大河ドラマなどで大軍が華々しくぶつかるとき、足が長く大きなサラブレッドたちが川の水を跳ね上げて走っていたりするが、戦国時代にそんなものがいるわけがない。
小柄な日本の在来馬が、父ほどの巨漢プラス武具の重みに耐えることができるだろうか。
北海道の、何と言ったか、ばんえい競馬? あそこで活躍している海外産の重種じゃないと無理なのではないか。
まさか、この雪中強行軍のような有様は、父が乗れる馬がないから皆徒歩、だとか言わないよな?
日は次第に高くなり、雪がきらきらと白く輝きを増していく。
一時間もしないうちにぶるぶると震え始めた勝千代を、父は厚めの陣羽織で覆ってくれた。
あれだけ手洗いを徹底していたが、やはり熱を出してしまうかもしれない。
ざくざくと雪を踏んで歩く音を聞きながら、高速道路のない遠い道行を思い、ひどく切ない気持ちになった。




