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最初、何が問題なのかわからなかった。
段蔵が手に持っている細工物が原因なのだろうと想像はついたが、それだけだ。
相変わらず姿勢のいい段蔵から土井の手に渡り、それを見た彼の顔からも一気に血の気が引いた。
奪い取るように二木が、次に父へと手渡される。
勝千代は父の膝の上で、ようやくその小さな丸い細工を視界に収めた。
今の時代、どの程度家紋というものが広く周知されているかわからない。果たして万事は、交渉相手のこの事情を知っていたのだろうか。
「……この薬籠をどこで?」
父の声色は、恐ろしいほど平坦だった。
「カシラが死んだから詳しくはわからねぇ。だが、取引した奴の落とし物だと聞いてる」
落とし物? はたしてそれは偶然なのか、意図して残されたものか。
「父上」
勝千代はくるり、と体の向きを変えた。
「持ち主にお心当たりは?」
「数は多くない」
「父上にお心当たりは?」
「若!」
二木の鋭い声に、勝千代はちらりとそちらに目を向けた。
だが一番聞かなければならない事だ。もちろん父がサンカ衆とつながっているなどと思っているわけではない。
しかしあの細工物が父の私物なら、より敵が悪質な企みをしているという事だ。
父の近辺に敵が紛れ込んでいるという証拠でもある。
「いや……」
父はしばらく考えた末に首を振った。
「見覚えがある。だが、誰が持っていたかまではわからん。……見たのもかなり昔の気がする」
「落し物ではなく、陥れる為にわざと落とされたものかもしれませんね」
「陥れる? ワシをか?」
「父上がここにきてしまったので、もはや大した証拠にはなりませんが、たとえば……」
ボキッと骨が鳴る音がした。
勝千代の目の前で、父の手がこぶしになり、そこから聞こえてくる。
「この城が落城したのち、それがどこからか出てくれば、間違いなく家門に疑いの目が向いたでしょう」
証拠の品を壊されては困るので、こぶしになった大きな左手の上にモミジのような手を重ね、印籠の蓋だけのような細工物を右手から抜き取る。
想像していたよりも軽い、持った感じプラスチックのおもちゃのようだった。
それでも楕円の筒の形状はしっかりしていて、型崩れする様子もなく、職人の技術の高さがうかがえる。
機械などないこの時代に、これだけのものを作る技術はたいしたものだ
肝心の家紋は、根付のような形状で、組みひもの端についていた。
こちらは漆塗りではなく、白い……なんだろう、骨? のようなものを掘って刻んでいる。
確かに、父の城でよく見かけた家紋だった。
この「いかにも」という落とし物に、顔をしかめる。
証拠とされるに足る、父を追求するには十分なものだ。
おそらくは、ばらまかれたのはこれだけではないだろう。
「この一件を企んでくれた何者かは、少なくともコレを手に入れることのできる立場にいる者です。大分絞れるでしょう」
勝千代は、小さな手で裏表ひっくり返しながら言った。
「こういった家紋入りの小物は多いのですか?」
「いや……作らせるのに金が掛かるから、当主でない限り持っていて一、二個だろう。親から受け継いだものがほとんどだろうな」
父は勝千代の顔をジッと見下ろし、おもむろにその髪を撫でた。
「のう、お勝」
「はい」
「ワシは当主として、この件を一門に問いただしに行かねばならぬ」
髭面の、どこからが髭でどこからが髪かわからない、熊のような父の顔をじっと見上げる。
不意に思い出したのが、大量に引き抜かれた髪の事だ。
幼い子供の将来を暗澹たるものにする非道は、いまだ元の状態を取り戻せていないことからも、到底許せるものではない。
ふと、父が実は父ではなく、祖父だという事を思い出した。
万が一血縁上の父親が、その……わびしい体質だったら?
ぞっとして顔から血の気が引いた。
「お勝?」
心配そうに名を呼ばれ、着物の袖を握り締める。
「どうした? 十分な護衛を置いていく故、不安に思う事はないぞ」
ぎゅっと抱き込まれ、分厚い胸板に頬を押し当てた。
……本当に恐ろしい。
父が思っているのとは全く違う方向で震えあがり、そのDNAが強く働いてくれることを一心に願う。
「……いいえ。手勢が心もとない状態で、二手に分かれるのはよくありません」
「だが」
おそらく父は、勝千代が生まれ育ったあの城へ行くのだ。
大人としての理性が、父がいるのだから何事も起こるまいと思っていても、精神的には忌避感がある。
それは幼い勝千代が感じていることだ。
恐ろしい思いをたくさんした。痛い思いもした。それらの日々は、彼の中で、まだ消化しきれてはいない。
ズキリと、むしり取られた生え際の皮膚が痛んだ。
「万事」
まるで人形のように父に抱き込まれたまま、勝千代は土間に座らされているサンカ衆の男の名を呼んだ。
「この家紋が、我が福島一族のものだと知って持ってきたのか?」
「……いや」
「我が父を狙って、どこぞの誰かが仕掛けてきている。まだはっきりとその姿は見えぬが、そちの敵であると同時に我らの敵だ。きっちり落し前はつける故、何も言わず引くがいい」
答えはない。
ちらりと彼の方を見ると、苦いものを口いっぱいに放り込まれたかのような、ものすごい渋面だった。
「万事」
納得がいかない、というその気持ちはわかる。
「そのほうの肩には、生き残ったサンカ衆の命運が掛かっているのではないか? 復讐よりも、この冬を乗り切り、怪我人や飢えた子らをなんとかするのが先だろう」
もちろん詭弁である。要するに早々にお引き取り願いたいのだ。
「段蔵」
小ズルい大人は攻める箇所を知っている。
渋る万事の後押しをするべく、段蔵の家に残してきた品々を売りはらう算段をする。
サンカ衆が裏ルートで売るよりも、段蔵にまかせるほうが高く売れるはずだ。
おおよそ百貫から百五十貫、というのが彼の予想だった。
「百貫……」
貨幣価値がよくわからないので、いまいちピンとこなかったが、万事の表情を見るに、それほど悪くない値段なのだろうと思う。
「こちらに任せてくれるなら、できるだけ高く売りその金を渡そう。信じられぬというならば、品物を直接持っていき売ればよい」
ふと思い出して手元の小物を見下ろす。
「これについても、追加で何か渡そう。望みはあるか?」
「……武家は信用ならねぇ」
万事の言い分はわかる。武士云々ではなく、そもそもこの時代の人間そのものが、生き延びることに貪欲で、他者を顧みない。
今は正義漢ぶっている万事とて、身内を守るためなら裏切りもするだろう。
そうする必要のない時代に生まれ育った幸運が、どれほど得難いものかが今になってわかる。
「では、荷を持って去るが良い。追いはせぬ。ただし、今後今川家領内に立ち入ることは許さぬ」
勝千代の口調は、外見のあどけなさ同様、ひどく幼く柔いものだった。
「サンカ衆を領内でみかけたら、何もしておらずとも捕らえさせてもらう」
しかし万事だけでなく、父たちですら、引きつった表情で口を閉ざし黙り込んだ。
勝千代は小さく首を傾げてまず万事を見下ろし、次いで土井を、南を、二木を見た。
無表情な段蔵とにこにこ顔の弥太郎はともかくとして、何故父までも半笑いで固まったような顔をしているのだろう。
勝千代は知らなかった。
ほかの大人たち、交渉をした二木ですら、精々この地から去らせ、岡部殿の城を襲わぬという約定を結ぶだけだと考えていた。
サンカ衆を丸ごとすべて領内から撤退させる……そんな大それた事を考えているなど、誰も思いもしていなかったのだ。
二度と領内で仕事をしない事って条件、最初に言っていたと思うけど。
解せない表情なのは、勝千代だけだった。




