奥平2(40ぐらい・曳馬城落城後)
……見張られている。
奥平は俯き、息を殺して足を速めた。
真冬の冷気が素足から這い上がり、芯の臓まで凍り付きそうだ。
曳馬城は戦の後処理で多忙なはずなのに、誰一人として奥平に声を掛けてこないのが、状況の悪さを告げていた。
敵意というには静かで、警戒というには冷ややかな視線。
それが四六時中奥平を“見ている”。
まるで、真綿で首を絞められているような感覚だった。
足元を見ながら廊下を歩き、居室へと急ぐ。
心は決まらないままに、時間だけが過ぎていく。
間がないのはわかっていた。
刻一刻と過ぎていくのは、勝千代殿ではなく己の命の期限だ。
曳馬城の一角に与えられた居室に滑り込み、ため息をつく。
冷や汗が額に滲んでいる。
懐が重い。
部屋に置いておくわけにはいかないモノが、そこにある。
今夜は戦勝の祝いの席が設けられるそうだ。誘われたが、体調が悪いと断った。
奥平の酷い顔色を見て、納得してくれたのは古い知り合いだ。
彼らの目も、懐疑心と心配のはざまで揺れている。
こんな己を、まだ気遣ってくれる気の良さに、申し訳なくなってくる。
ああ、どうしてこんなことになったのだろう。
城を預かると決まった時に、満面の笑みで喜んでくれた家族の顔が脳裏に浮かぶ。
運の悪さに飲み込まれないよう用心しながら、周囲に気をつかい、多少のことには目をつぶり、忖度をし、ようやくつかんだ城番の座だった。
奥平の手が、無意識のうちに懐を押さえる。
……だがこれは、“多少のこと”ではない。
夜が更けてくる。
遠くで、賑やかな酒宴の声が聞こえてくる。
奥平はじっと文机の前に座って、灯明の明かりを見ていた。
眼球だけを動かして、もう幾度目か、男が潜んでいた襖のほうを見る。
耳を澄ませて気配を探り、襖がしっかりと閉まったままだということを確かめてから、「……よし」と小さく呟いた。
奥平は額に汗をにじませながら、わずかな明かりのもとで懐の包みを文机の上に置いた。
深呼吸をしてそっと開けると、一本の簪が灯明のあかりに黒くぬらりと光る。
昼間は見えた今川家の家紋は、室内の暗さに埋没してしまっていた。
あとは、たたまれた指示文の紙と、小さな薬包み。
指が震える。唇も震える。
――だが、やらねばならない。
そう心に強く言い聞かせて、薬包みを開いた。中身はごく少量。白いさらさらとした粉だ。
少し考えて、放置していた湯呑を手に取った。底のほうに少しだけ水が残っている。
奥平は息を止めたまま、粉をすべてその中に入れた。
暗いので、溶けたかどうかわからない。
「よし、次だ。よし」
呟きながら、薬包みの紙をクシャリと潰し、懐にねじ込む。
黒い漆塗りの簪を手に取り、躊躇って、何度も躊躇って、ぐっと奥歯を噛み締めて、家紋の刻まれた部分を掌で包んだ。
そして、残りを文机の角に押し当て力を込める。
狙いは今川家の家紋より上の部分だ。
思いのほか、力が必要だった。もう一度、もっと強く体重を掛けると、想像していたより大きな音がして、バキリと先端の曲がった部分が折れた。
「……っ」
危うく湯呑を倒すところだった。
文机を押さえて、荒くなった息を整える。
慎重に、簪の先端を湯呑に差し込んだ。軽く混ぜてから引き上げる。
上手くいったかわからない。だが、サラサラの粉よりは毒が付着しているはずだ。
灯りにさらして確かめる勇気はなかった。目に見える罪の形を、正視するのが恐ろしかった。
やることはまだある。指示文を広げて、必要な部分を破り取る。そしてその小さな紙切れに、毒のついた簪の先端をくるんで丸めた。
それを大量に転がっている書き損じの山にそっと紛れ込ませて、ようやくほっと息を吐く。
これでいいのか。本当にいいのかと何度も自身に問いかける。
いや、勝千代殿も己も、両方が生きながらえる道を選んだことに悔いはない。
あとはこれだ。家紋がついている側の簪の処分も考えなくては。これが原因で、今川家の内紛になっては困る。
隣室からかすかな音がした。
奥平ははっとして、折れた簪の残りを包み直して懐に戻した。
奥の襖が細めに開くのと、毒の入った湯呑を掌に包むのとはほぼ同時だった。
「……首尾は」
聞こえてくるかすかな声に、ごくりと喉を鳴らす。
「厨に行って、勝千代殿の御膳に例のものを混ぜた。どうなるかはわからぬ」
それ以上を求められても困ると眉間にしわを寄せると、チッと舌打ちが聞こえた。
「もっと確実にはできませぬか」
「警備が厳重だ。一応白湯も用意したのだが、運ばれもしなかった」
奥平が湯呑を示すと、影の男はしばらく黙った。
「優秀な毒見がいるようだ。確かめもせず中身を捨てられた。証拠が残るのもどうかと思い、気づかれないように回収してきた」
今が夜で、室内が暗いことがありがたい。
冷や汗を流しながらの震え声は聞こえても、表情までは読み取れないはず。
「これ以上は無理だ。残っている毒も、これだけだ」
……いや、暗い場所にいる男のほうからだと、奥平の表情は丸見えかもしれない。
背筋が震えて、ガチリと奥歯が鳴った。
幸いなことに、男は何も言わなかった。
「今は酒宴の最中だ。飯尾殿を城から出す絶好の機会ではないか」
改めて、気を逸らすべくもう一つの仕事のほうに水を向ける。
奥平への指示文の中には、かつての曳馬城主飯尾殿を、今川館まで連れてくるように、という一文もあった。
負傷して長く囚われの身だったと聞くが、昼間少し話をしたところ、歩くのに支障はなさそうに見えた。
「早朝に出立すると伝えてある。飯尾殿は了承した」
「……わかりました」
奥平は手にしていた湯呑を、影の男のほうに差し出した。
「処分を頼めるか」
毒を少しでも早く手放したいという欲求が、震えと恐怖を凌駕した。
立ち上がり、わずかに開いた隙間へと近づく。
奥平は無意識のうちに視線を逸らせ、灯明のかすかな明かりのほうを見た。
再び視線を戻した時には、隙間の向こうに男の姿はなく、湯呑の重みも消えていた。
敵であろうと、ちゃんと良心が残っている者もいる




