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冬嵐記  作者: 槐
外伝 一朗太記

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308/308

遠江 朝比奈領 寒月屋敷4-4

 奈津の居室に足を踏み入れた瞬間、頭に血が上った。

 大の大人が、幼い奈津を抱き込んでいるように見えたからだ。

 よくよく見れば、手を伸ばして袖を掴んでいるのは奈津のほうで、男は宥めるような表情をしていたのだが、目にした瞬間の動揺はわかってほしい。

 奈津は幼いとはいえ、今川館の奥に出仕していた未婚の子女であり、岡部の姫だ。血縁者でもない男がおいそれと近づいてよい子ではない。

 一朗太は込み上げてくる怒りをぐっとこらえ、軽く咳ばらいをした。

 はっとした奈津がこちらを見て、パッと表情を明るくする。

 そこで初めて、室内には複数の女中がいて、広げた着物を片しているところだということに目が行った。

 二人きりというわけではなく、密室でもないのだから、目くじらを立てるべきではない。

「兄上!」

 かつてを思わせる勢いで呼ばれて、つい頬がほころぶ。

「兄上も仰ってください! お別れだなんてそんな」

 何の話かと問い返すと、目の前の男、まったく気に入らない万事とやらが、奈津に暇を乞いに来たのだそうだ。

 この男は誰の家臣かもはっきりせず、我が物顔で御屋形様の屋敷に出入りしているが、そもそも武士かどうかも怪しい。

 そんなどこの馬の骨かもわからぬ男が奈津の傍にいるのは、やはり気に食わない。

 兄としては、暇乞い大いに結構! なのだが……奈津はそうではないのだろう。

「ここを出ると聞いた」

 万事の口調はぶっきらぼうで粗野だ。

「そっ、それは……」

 奈津は縋り付くように万事の袖を掴んだまま、助けを求めてこちらを見た。

 本人も、いつまでもここに居続けることはできないとわかっているだろう。それでも、すぐではないと思いたいに違いない。

「近いうちに」

 一朗太が頷くと、奈津の顔からさっと血の気が引いた。

「大丈夫だ」

 震え始めた奈津の手を、万事の大きな掌が包み込む。

 この野郎、気安く触るな! むかむかと腹が立ったが、「我慢、我慢だ」と唇を引き締める。

「お祖母様のところへ参ろう。三郎が待っている」

 一朗太は努めて優しい口調でそう言って、怯える奈津に頷きかけた。

「兄は急ぎ駿府へ向かわねばならぬ。今なら岡部郷まで同行できる」

「あ、あ……兄上」

 駿府、と聞いてなお一層顔色が悪くなった奈津は、それでも必死に何かを言おうと幾度も唇を開け閉めした。

「あ、兄上は駿府へ?」

 一朗太は急かさず、「うん」と頷き続きを促す。

「駄目です! 駄目です! そ、そんな」

 ひくり、とひときわ大きくしゃくりあげ、奈津の全身がガタガタと震えた。

「奈津」

 一朗太は静かに言った。

「行かねばならぬのだ」

 奈津の喉がひゅっと鳴った。万事の袖をつかむ指先まで真っ白だ。万事はその手を優しく揺すった。そこだけ妙に日焼けが浅いので、普段は手甲を身に着けているのかもしれない。

「奈津」

 一朗太はもう一度、妹の名を呼んだ。

「幸次郎が死んだとき、そなたはどう思うた」

 奈津の喉がひくりと鳴った。ひっくひっくとしゃっくりのような嗚咽が続く。

 一朗太は、まっすぐに妹の目を見据え、激しい胸の痛みに耐えながら、ずっと長らく悔いてきたことを告げた。

「兄は、はやり病ならば仕方がないと思うたのだ」

 大きく見開かれた目に、涙の幕が張り、一気に決壊した。ボロボロとこぼれる涙は途切れることなく、そのまま万事の手の甲を濡らし袴の膝を濡らす。

「不甲斐なくて済まない」

 姉上の時もそうだ。見つかった、助け出されて保護されていると聞いて、安心してしまった。

 できることはもっとあったはずなのに。

「本当に済まない」

 一朗太はすっと歩を進め、むせび泣く奈津の傍らに膝をついた。

 宥めるように、肩を撫でる。

 着物越しにも伝わってくる震えに、またぎゅっと胸が痛む。

 こんなに小さな妹に、なんという重荷を背負わせてしまったのか。

 彼らが苦しんでいる間、矢面に立つべきだった一朗太は、のうのうと親元で暮らしていた。何も知らずに暢気に書物などを呼んで、ごく普通の日々を過ごしていたのだ。

 そっと骨の浮いた奈津の背中を撫でてから、涙で濡れる彼女の頬を拭った。そのまま掌で頬を包んで、嗚咽を繰り返す奈津の額にコツンと頭を寄せた。

 かつて、もっとずっと幼いころに、内緒の約束をしたときのように。

「……次はない。必ず守る」

 その囁きは、かたい誓いの言葉だった。


 奈津の体調と、気持ちの整理をする時間を数日待ってから、岡部一行は駿府へ出立することにした。

 その前夜、暇乞いのあいさつに出向いた。

「……行くか」

 御前様の静かな問いかけに、頭を低くする。

「はい。長らく大変お世話になりました。このお礼は必ずや」

「子供はそないこと考えんでええ」

 御前様はそうおっしゃってから、しばらく奈津を見つめ、「寂しゅうなる」と呟いた。

 奈津もまた「はい」と頷き、後ろ髪を引かれている様子だ。

「明日出立いたします」

 一朗太の言葉に、御前様は無言で数回首を上下させた。

 奈津用に駕籠も用意した。旅の支度も、準備万端だ。

 一朗太にとって一つ不本意なのは、万事も同行することだ。奈津がどうしてもと言ってきかなかった。その後は引き続き、駿府まで行動を共にすることになっている。

 奈津とともに岡部郷においていくなどとんでもない。なんなら、駿府での仕事をいくつか頼んでも良いと思っている。

「……くしゅん」

 御前様へのあいさつを終え、母屋の居室をでたところで、奈津が小さくくしゃみをした。手で口を覆って、更にふたつ。

 たった数日の旅路とはいえ、出立する前から体調を崩すのはよくない。

 だが一朗太が何かを言う前に、万事がさっと風を遮るように奈津の傍らに寄った。当たり前のように抱き上げようとしたが、一朗太が咳ばらいをするとさっと手を引く。

 奈津は幼いが、抱き上げて運ぶほどの女童ではない。

 一朗太の睨みに、奈津はしおしおと腕を下げたが、側にいる兄より万事を頼りにしているのはあからさまだ。

 ……いや、だからなんでそこで手をつなぐ⁈

 離れろ離れろ!

最後は、妹に悪い虫がついている! とイラついている一朗太君でした

万事の身分云々ではなく、ただ気に入らないのです


とりあえず、外伝はここまで

次はどうしよう

お勝の続きにするかなぁ

あるいは銀山のほうにするか

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
モーニングスターブックスさまより
2月21日発売です

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― 新着の感想 ―
お疲れ様でした。 外伝も良かったです♪ また、お勝様の勇姿を見たいなと思います。
外伝おつかれさまです。この一連を読んだ後に春雷記の一朗太君を見ると感慨深いですね。 次は、銀山も捨てがたすぎるんですが…! お勝様にも会いたい!新刊を読んだばかりだと、その気持ちが強くて…。幸せな悩み…
更新ありがとうございます。 久しぶりにお勝に会えました。 一郎太は後の岡部元信なのか。 これからも楽しみです。
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