遠江 朝比奈領 寒月屋敷4-4
奈津の居室に足を踏み入れた瞬間、頭に血が上った。
大の大人が、幼い奈津を抱き込んでいるように見えたからだ。
よくよく見れば、手を伸ばして袖を掴んでいるのは奈津のほうで、男は宥めるような表情をしていたのだが、目にした瞬間の動揺はわかってほしい。
奈津は幼いとはいえ、今川館の奥に出仕していた未婚の子女であり、岡部の姫だ。血縁者でもない男がおいそれと近づいてよい子ではない。
一朗太は込み上げてくる怒りをぐっとこらえ、軽く咳ばらいをした。
はっとした奈津がこちらを見て、パッと表情を明るくする。
そこで初めて、室内には複数の女中がいて、広げた着物を片しているところだということに目が行った。
二人きりというわけではなく、密室でもないのだから、目くじらを立てるべきではない。
「兄上!」
かつてを思わせる勢いで呼ばれて、つい頬がほころぶ。
「兄上も仰ってください! お別れだなんてそんな」
何の話かと問い返すと、目の前の男、まったく気に入らない万事とやらが、奈津に暇を乞いに来たのだそうだ。
この男は誰の家臣かもはっきりせず、我が物顔で御屋形様の屋敷に出入りしているが、そもそも武士かどうかも怪しい。
そんなどこの馬の骨かもわからぬ男が奈津の傍にいるのは、やはり気に食わない。
兄としては、暇乞い大いに結構! なのだが……奈津はそうではないのだろう。
「ここを出ると聞いた」
万事の口調はぶっきらぼうで粗野だ。
「そっ、それは……」
奈津は縋り付くように万事の袖を掴んだまま、助けを求めてこちらを見た。
本人も、いつまでもここに居続けることはできないとわかっているだろう。それでも、すぐではないと思いたいに違いない。
「近いうちに」
一朗太が頷くと、奈津の顔からさっと血の気が引いた。
「大丈夫だ」
震え始めた奈津の手を、万事の大きな掌が包み込む。
この野郎、気安く触るな! むかむかと腹が立ったが、「我慢、我慢だ」と唇を引き締める。
「お祖母様のところへ参ろう。三郎が待っている」
一朗太は努めて優しい口調でそう言って、怯える奈津に頷きかけた。
「兄は急ぎ駿府へ向かわねばならぬ。今なら岡部郷まで同行できる」
「あ、あ……兄上」
駿府、と聞いてなお一層顔色が悪くなった奈津は、それでも必死に何かを言おうと幾度も唇を開け閉めした。
「あ、兄上は駿府へ?」
一朗太は急かさず、「うん」と頷き続きを促す。
「駄目です! 駄目です! そ、そんな」
ひくり、とひときわ大きくしゃくりあげ、奈津の全身がガタガタと震えた。
「奈津」
一朗太は静かに言った。
「行かねばならぬのだ」
奈津の喉がひゅっと鳴った。万事の袖をつかむ指先まで真っ白だ。万事はその手を優しく揺すった。そこだけ妙に日焼けが浅いので、普段は手甲を身に着けているのかもしれない。
「奈津」
一朗太はもう一度、妹の名を呼んだ。
「幸次郎が死んだとき、そなたはどう思うた」
奈津の喉がひくりと鳴った。ひっくひっくとしゃっくりのような嗚咽が続く。
一朗太は、まっすぐに妹の目を見据え、激しい胸の痛みに耐えながら、ずっと長らく悔いてきたことを告げた。
「兄は、はやり病ならば仕方がないと思うたのだ」
大きく見開かれた目に、涙の幕が張り、一気に決壊した。ボロボロとこぼれる涙は途切れることなく、そのまま万事の手の甲を濡らし袴の膝を濡らす。
「不甲斐なくて済まない」
姉上の時もそうだ。見つかった、助け出されて保護されていると聞いて、安心してしまった。
できることはもっとあったはずなのに。
「本当に済まない」
一朗太はすっと歩を進め、むせび泣く奈津の傍らに膝をついた。
宥めるように、肩を撫でる。
着物越しにも伝わってくる震えに、またぎゅっと胸が痛む。
こんなに小さな妹に、なんという重荷を背負わせてしまったのか。
彼らが苦しんでいる間、矢面に立つべきだった一朗太は、のうのうと親元で暮らしていた。何も知らずに暢気に書物などを呼んで、ごく普通の日々を過ごしていたのだ。
そっと骨の浮いた奈津の背中を撫でてから、涙で濡れる彼女の頬を拭った。そのまま掌で頬を包んで、嗚咽を繰り返す奈津の額にコツンと頭を寄せた。
かつて、もっとずっと幼いころに、内緒の約束をしたときのように。
「……次はない。必ず守る」
その囁きは、かたい誓いの言葉だった。
奈津の体調と、気持ちの整理をする時間を数日待ってから、岡部一行は駿府へ出立することにした。
その前夜、暇乞いのあいさつに出向いた。
「……行くか」
御前様の静かな問いかけに、頭を低くする。
「はい。長らく大変お世話になりました。このお礼は必ずや」
「子供はそないこと考えんでええ」
御前様はそうおっしゃってから、しばらく奈津を見つめ、「寂しゅうなる」と呟いた。
奈津もまた「はい」と頷き、後ろ髪を引かれている様子だ。
「明日出立いたします」
一朗太の言葉に、御前様は無言で数回首を上下させた。
奈津用に駕籠も用意した。旅の支度も、準備万端だ。
一朗太にとって一つ不本意なのは、万事も同行することだ。奈津がどうしてもと言ってきかなかった。その後は引き続き、駿府まで行動を共にすることになっている。
奈津とともに岡部郷においていくなどとんでもない。なんなら、駿府での仕事をいくつか頼んでも良いと思っている。
「……くしゅん」
御前様へのあいさつを終え、母屋の居室をでたところで、奈津が小さくくしゃみをした。手で口を覆って、更にふたつ。
たった数日の旅路とはいえ、出立する前から体調を崩すのはよくない。
だが一朗太が何かを言う前に、万事がさっと風を遮るように奈津の傍らに寄った。当たり前のように抱き上げようとしたが、一朗太が咳ばらいをするとさっと手を引く。
奈津は幼いが、抱き上げて運ぶほどの女童ではない。
一朗太の睨みに、奈津はしおしおと腕を下げたが、側にいる兄より万事を頼りにしているのはあからさまだ。
……いや、だからなんでそこで手をつなぐ⁈
離れろ離れろ!
最後は、妹に悪い虫がついている! とイラついている一朗太君でした
万事の身分云々ではなく、ただ気に入らないのです
とりあえず、外伝はここまで
次はどうしよう
お勝の続きにするかなぁ
あるいは銀山のほうにするか




