遠江 朝比奈領 寒月屋敷4-2
「駿府へはいつ?」
気詰まりな沈黙を破って、勝千代殿のほうから話しかけてきた。一朗太の立場から何が言えると黙り込んでいたのだが、思いのほか親し気な口調だった。
はっと顔をあげてて上座を見ると、小さな脇息に肘を置いた勝千代殿が、首を傾げてこちらを見ている。
姿かたちは幼いのに、その目だけがしっかりと強い。気押されて視線を逸らせそうになったが、そういえばあの吹雪の日もそうだったと、確かめるように視線を合わせる。
「……わかりません」
一朗太の声は情けなく震えていた。
「奈津を置いてはいけません」
ああ。それは言い訳だ。
横田だけではない。忠義を尽くしてくれた者たちを複数失い、絶望に飲み込まれそうだった。
「ですが、早く報告しなければ、岡部家には軍役があるでしょう」
相変わらず、外見に見合わない大人びた口調でそう問われ、再び視線が下がった。
岡部家が担っていたのは、信濃国境の守りだ。今となっては笑止としか言えないが、それを心底誇りに思っていた時期はある。
かつての、父のような武門の当主になれるのだろうかという不安は、今となってはあの時以上の重荷だった。
今の岡部家に、国境の守りなど不可能だからだ。
「父の負傷と、雪崩により城が塞がれてしまったことは報告済みです。兵の多くを失ったことも」
現実を見なければならない。岡部家はサンカ衆の襲撃を凌ぐのが精いっぱいで、天野分家の横やりにもうまく対応できず、雪崩で城を失ったのだ。
雪崩については、どうしようもなかったと言い訳もできるが、だからといって、守るべき拠点を崩壊させた事実は拭えない。
今川館がそれについてどう対応してくるか……見通しは甘くはなかった。
「若君」
俯いて黙り込んでいた一朗太に、背後に控えた下村が控えめに声を掛けてくる。
「……わかっている」
促されて顔を上げ、まっすぐ見つめた上座の主は、随分と長い間無言でいたのに、急かすこともなく待っていてくれた。
これが本当に数え六つか? いや六つというには身体つきは幼い。体格が貧弱で、年齢よりも年下に見えると言うのは、一朗太と似た要素だ。
だが、忍耐強く返答を待ってくれているその様子は、ただ「見た目が幼いだけ」というには不釣り合いなものがあった。
もっとずっと大人を相手にしているような気がするのだ。
「本当に色々とご迷惑をおかけしました。父があのような事をしたにもかかわらず、姉と妹を救い出してくれたことに感謝いたします」
姉上のことに言及した瞬間、勝千代殿の幼い容貌に苦痛の色が過った。
責めたかったわけではない。責任を感じる必要もない。そんな言い訳を飲み込んだのは、勝千代殿自身が一瞬でその色を拭い去ったからだ。
「まだ今川館からの通達はないのですが、おそらく父の隠居の報告に上がった際、あの城を引き渡すように言われると思います」
そもそもあの城はもう使えない。少なくとも春になって、本当の被害が把握できるまでは城としての体裁を保つこともできないだろう。
いや春になったとしても、大々的な普請をし直さなければならない。
そしてそんなことをするだけの銭が、岡部家にはない。
つまりは、あの城は誰かに任せるしかないいうことだ。
「今川が城の修繕費を払ってくれると思えばいいのです」
岡部家の苦しい懐事情など表に出すべきではないと言葉を濁したのだが、勝千代殿はさらりとそう言って、唇をほころばせた。
「かなりひどく潰されていましたから、国境の防備のために、もう一度新しく、もっと堅牢なものに建て替えてくれるでしょう」
この年頃童子が、掛かりについて言及するとは思わなかった。
実際一朗太が、岡部家はそれほど裕福なわけではないと気づいたのはもっとずっと年齢が上がってからだ。
「修繕が終わるころには、再び岡部家も精強さを取り戻し、勇名をとどろかす日も来ると信じています」
不覚にも、熱い塊が喉元まで込み上げてきて、涙腺が緩んだ。
勝千代殿は励ますように微笑み、うんうんと数回首を上下させる。
「おそらくは、今川館が何がしかのお役目を下さると思います。雌伏の時と思い、御励み下さい」
「……っ、はい!」
「何かあればいつでも頼ってください」
掛けられた言葉は、御屋形様の御子としてではなく、福島家の嫡男としてでもなく、素の勝千代殿の本音に聞こえた。
何よりうれしかったのは、城を失うという大きな失点を、挽回可能だと言い切ってくれたことだ。
これまでは誰も、下村ですら、そんなことは言ってくれなかった。
一朗太自身、無理だと思っていた。
天野分家の処分が速やかに下った割には、岡部家への沙汰がようとしてなく、今川館にとってもはやその程度の価値しかないのだろう……と。
悔しくて。許せなくて。
まるで使い捨ての道具のように、好き勝手に扱われた事に納得などできない。
だからこそ、復讐に舵を切ろうとしていたのだ。だが……
一朗太は涙の幕が張った目で、勝千代殿の幼い顔をじっと見つめた。
にこりとその頬が綻び、柔らかな微笑みが浮かぶ。
「碁は打ちますか?」
ひどく優しい口調だった。
弟妹がこの年頃の時、一朗太に向けてわがまま放題、無邪気そのものだった。そんな彼らの頼れる兄であるべく、しっかりしなければと、ずっと気を張っていた。
「……はい」
だがその気負いがほろりとほどける。
……頼ってもいいのかもしれない。
童子相手におかしな話だが、まるで頼れる兄ができたような気さえしていた。
あと少しでいったん終了
悲報w 「おともだち」枠ではなく「兄」枠だった件




