遠江 朝比奈領 墓参り
片腕の老武士が、一朗太に向かって額を床にこすりつけている。
だがいくら頭をさげられたとて、死んでいった者たちは戻ってこないのだ。
「着替えを用意していただいたことは礼を言います」
下村は取ってつけたような笑みでそう返し、血なまぐさい昼前の出来事を許すつもりはないと言外に告げた。
「……まことに申し訳ない」
棚田と名乗ったその男は、年齢と負傷を理由に現役を引退したのだろう。そんな男を引っ張り出してこなくてはならないとは、朝比奈家もいよいよだ。
「岡部家や御前様が狙われた理由を把握しておられるのか」
一朗太の問いかけに、棚田老はわずかに顔をあげた。
動きにぎこちなさは感じないので、片腕になったのは相当前なのだろう。傷と皺の多い、歴戦の武士だとわかる容貌が、渋くしかめられている。
「わが殿は、若くして親を失い、朝比奈の当主として立たれました。その立場を強化するためと称して今川館より提案された婚姻を、ありがたくお受けになられました」
棚田老の鋭い眼光が一朗太を射抜いた。
理由と尋ねてそう答えたということは、朝比奈殿の婚姻が問題だったということか? たしかご正室は御台様の姪御だったはず。
「幸いにもまだ御子に恵まれてはおりませぬ。近々ご側室をお迎えになる話がすすんでおりました」
随分と突っ込んだ話をされているのはわかる。だがその内容を完全に理解するのは、いまの一朗太の知るところでは難しかった。
だがそれが理由だというのなら、素直に受け取ればお家騒動だ。御台様の派閥が朝比奈を飲み込もうとして、この騒ぎになっている?
……今川館の奥には、姉上や奈津や弟の幸次郎が出仕していた。御前様も、そちらが関わっているかもしれないと仰っていた。
すべての流れが、一か所から出ているように思えてならない。
「朝比奈殿が不在時をねらわれたのか」
つまりは、そういうことだろう。
一朗太が考えた末導き出した結論に、棚田老は静かに視線を床に戻して礼を深くした。
「兄上っ!」
かつてより随分と細い、たよりない声だった。
だが悲鳴のようにそう呼ばれ、しがみついてくる力は強い。
ああ、覚えているよりもずっと背が伸びている。痩せた事ばかりに目が行っていたが、奈津は勝千代殿よりも年上の、すでに今川館に出仕していた娘なのだ。
一朗太は、この騒ぎで不安になったのだろう妹の背中をそっと撫でた。
「よかった。ご無事で。よかったっ」
横田は死んでしまった。だがそのことを、奈津に告げるつもりはなかった。
一度ぎゅっと抱きしめてから、ぽんぽんと背中を叩く。
「もう大丈夫だ」
棚田老いわく、朝比奈衆らのご正室派閥はあらかた抑えた後で、今回の騒ぎが最後のあがきとのことだ。動いた兵もきわめて少数で、本来ならば騒ぎになる前にとまるはずだった。
本当にその通りなら、御前様や奈津が朝比奈から襲撃を受けることはもうないだろう。
だが不安は拭えない。朝比奈に頼らない守りを考えなければ。
一朗太は御前様に向き直り、騒ぎの間奈津を守ってくださった事に頭を下げた。
「幸いにも福島家の兵が駆けつけてきております。今後はこのようなことは起こらぬかと」
「無事であるなら良い」
御前様は、ご自身が襲撃を受ける可能性ではなく、一朗太や奈津の無事を仰っている。
そのことが有難く、武士の血なまぐささに申し訳なさがつのった。
そのあと、皆で姉上の墓に参りに行った。
出迎えてくれた住職には、門前で死者を出してしまったことを詫びた。横田の弔いを特に念入りにと頼み、姉への供養を含めて多めに包んでおいた。
奈津は気丈にも、墓の前まで自らの足で歩き、真っ青になりながら住職の読経を聞いていた。
御前様と万事という、本来並び立つはずのない二人が背後にいてくれたからこそ、耐えることが出来たのだろう。
それからまた半日を掛けて、屋敷までの岐路に着く。
輿があるので、歩みはゆっくりだ。
道中の休憩も最小限に、日が暮れるまでに戻るべくひたすら隊列を進めた。
「……一朗太殿!」
行程の半分ほどを過ぎたあたりで、すっかり熱のさがった小四郎殿が駆けつけてきた。
人手不足で雑多な家門を管理するのが大変だったから、正直助かる。小四郎殿もだが、その側付きたちが有能なのだ。
「襲われたと聞いたが」
小四郎殿はきょろりと周囲を見回し、横田の不在に気づいただろうに、その事には言及しなかった。
同じ小競り合いを潜り抜けたためか、以前よりも距離が近い他家の武士たちの様子が気になるようで、特に久野家の家臣たちを念入りに観察している。
天野家と久野家の仲が悪いとは聞かないが、同じ遠江勢なので張り合う所があるのだろう。
「来ているぞ」
耳元で、内緒話をするようにささやかれて、とっさに何を言われているのかわからなかった。
「福島勝千代殿だ」
「……えっ」
思わずまじまじと小四郎殿を振り返る。
昼間の明るい日差しの下で、病み上がりとは思えない元気いっぱいの少年の顔をまじまじと見返した。
ここにきているのかと周囲を見回してみたが、それらしい姿は見当たらない。
「違う違う、屋敷にだ」
御前様のお屋敷のほうに、勝千代殿が訪ねてきたそうだ。
ふと、屋敷ではなく寺のほうに来てくれていれば、昼の騒ぎは起こらなかったかもしれないという思いがよぎった。寺は掛川からお屋敷までの途中にあるからだ。
もちろん、街道から寺に向かって北上する距離がある。墓参りに向かっていることを知らなかったら、来ようがない。
一朗太は、そんな事を考える己を恥じた。
他力ばかりを頼みにし、自身の力ではなにもできない、まさに小童。
だから横田を失ったのだ。
責めるべきは勝千代殿ではなく、襲ってきた連中と、非力な自身だ。




