遠江 朝比奈領 寺へ1-3
一朗太の指摘は、難癖でもなんでもない。その場にいたほとんど、不用意な言葉を漏らした当の本人たちでさえそう思ったはずなのに、戸田か石崎かは過剰な程の反応をした。
具体的にどういう言葉を返してきたか、明言したくない。
ただ、一瞬にしてその場が凍り付き、横田が制止してくれなければ一朗太は刀を抜いていただろう。
そうだな。ここで流血沙汰はよくない。姉上が眠る墓の近くだ。
そんな一朗太を見下して、小馬鹿にするような表情をした戸田か石崎かは、周囲の咎めたてる視線を受けて、誤魔化すように咳ばらいをした。
「いや申し訳ござらぬ。つい本音がこぼれてしまい申した」
よくも白々しく言えるものだ。城を失くした父が、自裁もせず生きながらえていることを『軟弱の卑怯者』と言い、姉上についても身持ちが悪いなどと。
事情を知らない者からすれば、いつか己らの主が陥るかもしれない状況だという認識があっただろうし、姉上についても言いがかりのように聞こえただろう。
だが、ほかならぬ姉上のことを口に上らせたのは失敗だったな。その話は広くは伝わっていない。轟介の暴言からうわさが広がるにしても、この男が知るには早い。
腕を掴む横田の手から力が抜ける。ここまで侮辱されて、横田の辛抱も限界だったのだろう。
見ている方の感情も、おそらくこちらに同情的だったと思う。周囲からの視線が、ますます厳しくなった。
それに気づいた男が焦ったように口を開いた。また何か、聞くに堪えない事を言うのだと思うと、ジンジンと頭の芯が熱を持った。
……もういいだろう?
刀は抜かないでも、拳で殴りかかってもいいはずだ。あの憎たらしい顔をボコボコにして、地面に額を押し付けて、勘弁してくれというまで踏みつけにしてやろう。
岡部家の嫡男として、侮辱を受けて黙っているわけにはいかなかった。
「戸田!」
そんなとき、不穏を察して駆けつけてきた者たちがいた。
分が悪いと言い訳をかさねようとしていた男が、背後から来た朝比奈衆を振り返ってほっとしたように表情を緩める。
だがそれは、一朗太にとって駄目押しの一手だった。
「戸田一徹か」
激高を抑えに抑えた一朗太の声に、男はギクリと身をこわばらせた。
ぎぎぎ、と軋む音が聞こえそうな動きでこちらを見て、視線が合うと同時に顔色が悪くなる。
「そうか、おのれがそうか」
四十に近い年頃の、がっちりとした体躯の男だ。その年齢で足軽組頭だということは、家格の低い武士なのだろう。
朝比奈の威を借りて、己が大きくなったとでも思っているのだろうか。
岡部家を公然と侮辱して、ただで済むと?
一朗太の手が刀の柄にかかった。戸田の目がぎょろぎょろと周囲を見回し、味方になってくれそうなのは、駆けつけてきた仲間だけだと判断したのだろう、じりじりと後ずさり始める。
「逃げるのか」
一朗太のピシャリとした声に反発の表情を浮かべた戸田は、無意識のうちになのだろう、刀の柄を握った。
「戸田っ」
駆けつけてきた同輩らが、慌てて戸田を止めようとする。
だが遅かったな。鯉口を切っている。目撃者は多いぞ。
戸田の失策は、軽すぎる口もそうだが、焦って刀をカチャカチャと鳴らし抜き差ししたことだ。それが周囲の失笑を買い、戸田は更にいきり立った。
馬鹿だな。本当に馬鹿だ。
こういう頭に血がぼりやすい男を見ると、逆に冷静になる。
抜き放たれた刀が、一朗太に向けて振りかぶられる。一朗太はその刃先を見据え、よほど頑張って突進しなければ届かないと判断した。
恐怖はなかった。刃先が届かないという確信は、実際のところはそれほど確実なものではなかったのかもしれない。
それでも一朗太には余裕があった。戸田の動きは読みやすく、大きく振りかぶった刀は重心が乱れている。むしろ、この男の未熟さが哀れに思えてきた。
「待て、戸田!」
朝比奈衆の一人が必死に声をあげるが、戸田の耳には届いていないようだった。むしろ、その制止の声が焦りを煽っているように見えた。
「おのれ小童ぁっ!」
戸田が吼えながら踏み込んできた。だが、その動きは余りにも大振りで、隙だらけだった。一朗太は半歩横にずれるだけで刃筋を外した。
戸田の刀が空を切る。体勢を崩した戸田の脇腹が、一瞬無防備になる。
一朗太は刀を抜くまでもなく、柄の部分をぐいと前に突き出した。
対格差は明白。だが勢いが乗った状態で脇を強打した戸田は、もんどりうって藪の上に転んだ。とはいえ相手も武士だ。なんとか起き上がって掛かってこようとしたのだが……。
「うっ」
素早く動いた横田が、足で顎のあたりを蹴った。再び藪に、今度はうつぶせで突っ込む羽目になり、バキバキと派手な音を立てながら、かなりの距離を転がって行く。
そしてしばらく。誰もが無言のままで、無様に藪に突っ伏している戸田の背中を見ていた。
シーンと妙な静けさが真冬の山中に過る。
戸田は動かない。気絶したか? そのまま首の骨でも折ってくたばってくれてもいいが。
一朗太は近くに落ちている刀を拾った。ズシリと重みのある、実戦向きの刀だ。
もしかしてこれで姉を切ったのかもしれない。ふとそんなことを思い、抜き身の刀を掴んだまま、己のうちにこみあげてくる怒りと殺意を飲みこむ。
「お、岡部殿」
戸田以外の誰もがその場で立ち尽くしていたが、恐る恐るという風に声を掛けてきたのは駆けつけてきた朝比奈衆だ。
「うちの戸田がとんだ無礼を……っ」
思わずじろりと睨んでしまった。
たちまち怯んだのは、大柄だが気が弱そうな男だ。いや、それでも朝比奈の将だ。御前様によからぬたくらみを巡らせる一味かもしれない。
もしここが、姉上が眠る寺の前ではなく、御前様もいなければ、一朗太はその刀でうつぶせに転がっている戸田の急所に切りつけていただろう。
これもまた姉上のお導きかと思いながら、足元に深くその刀を突き立てた。
一朗太くんは、今はまだ文学少年風のひょろりとした体格の少年です




