1-3
次に意識が戻った時、ぬくぬくとした寝具の中にいた。
戻り切らない思考でぼんやりと周囲を見回し、こちらを覗き込んでいる大柄な男の影に気づく。
知らない男だ。
そう思うのとほぼ同時に「ちちうえ」と、舌足らずな口調でつぶやいていた。
「お勝、しっかりいたせ。父が参ったからには何も心配ないからな」
「それ以上近づいてはなりません。うつる病にございます」
「何を言うのだ! お勝が苦しんでおるのに……」
「若のお世話をしていた者が、軒並み同じ症状で寝付いております。死んだ者もおります。どうかご辛抱くだされ」
その声は知っている。勝千代の胸を蹴飛ばしてくれた叔父だ。
助かったのか? そう思えたのは一瞬だった。
悲嘆にくれる父の声が遠ざかり、その背後にいる叔父の冷ややかな目がこちらを見る。
事情はすぐに察した。
父が戻ってきたので、勝千代の窮状が気づかれないよう手を回したのだろう。
知らない場所だった。部屋は暖かく、隙間風もない。
肌触りのいい布が何枚もかけられ、その重みに押しつぶされそうだった。
「はよう死ね」
少し離れた位置に控えていた桂殿が、怨嗟に満ちた声でそう言い捨て、父の後を追った。
しばらくぼうっと閉められた襖を眺めていると、再び静かに開けられて、礼儀正しく一礼して男が入ってきた。
その後ろから坊主頭の男。荷物を掲げた若い男、の順で入室してくる。
坊主頭の男は見たことがある。あとの二人は知らない顔だ。
「薬湯をお持ちしました」
坊主頭が神妙な口調でそう言って、背後の助手らしい若者に目配せする。
若者は視線を下に向けたまま、掲げ持っていた盆を膝の前において深々と頭を垂れた。
飲んではいけない。
差し出された蓋つきの茶器を見て、とっさにそう思った。
「少々苦いですが、飲まねば良くなりませぬぞ」
何とか顔の位置をずらして拒否すると、薬を嫌がる我儘な子をいさめる調子でいなされる。
臥所から抱き起され、口元につけられた薬湯を拒否し続けることは難しかった。
背中を支えるふりをしている若者が、肉のない脇腹を強くつねった。
血が出るほどの痛みにあえぐと、さっさと口の中に薬湯が流し込まれる。
毒かもしれない、と思っていても、水すらまともに飲まされていない彼には甘露だった。
苦みのある液体が舌に染み込み、ほんの少しピリリと刺激を感じる。
喉を下り、食道に落ちていき……ぐらり、と意識がたわんだ。
「ごゆっくりお休みください」
遠くで、坊主頭が慇懃にそういう声を聞いた。
そしてまた気づいた時には、もとの狭い小部屋に戻されていた。
ヨネが心配そうにこちらを見下ろし、勝千代の意識が戻ったことにほっと表情を和らげる。
彼女が手にしているのは丸められた小さな布。少しずつ水分を口に含ませてくれていたらしい。
「……ヨネ」
声はかすれ、ひどく弱々しかった。
もうこの身体が長く持たないことはわかっていた。
毎食の粥の中にも毒が仕込んであったのだろう。腹を焼く痛みはずっと続いていて、それが尋常のものではないとわかってしまった。
勝千代が死んだら、この老婆はどうなるのだろう。
慣れとはたいしたもので、はじめはホラーだと感じていた容貌も気にならなくなっていた。それよりも、悪意に満ちた城中で、唯一勝千代を思ってくれる大切な存在だった。
喋れず手足も不自由な彼女が、この先どうなってしまうのか心配で。
しかし、遠ざけてしまう勇気はない。
一人ぐらい、この子を看取ってくれる者がいてもいいではないか。
身勝手な言い訳を心の中で繰り返し、罪悪感にまなじりが下がる。
「ありがとう」
舌足らずに囁く声に力はない。
ふるふると左右に振られる白髪交じりの頭が、勝千代の言葉を聞き取ろうと口元に近づく。
「わたしが死んだら」
ぎょっとしたように見開かれたその目は、片方濁っている。
「気づかれる前に、ここを去るんだよ」
おそらくきっと、口封じに処分されるだろう。勝千代は嫡男で、本来であればこんな風に扱われる身分ではないのだ。
再び大きく首を振る老女に、ほんの少し唇を上げて笑みを向ける。
「ヨネも少しやすんで」
夜明け前の薄闇の中、涙ぐむ老婆に親しみの目を向けて。
「大丈夫。まだ生きているから」
瀕死の状態であっても、人間はなかなか死なないものだから。
ホロホロとこぼれる大粒の涙は、しわとシミだらけの浅黒い肌をまだらに染めていく。
それを見られまいと顔をそむけたヨネが、小さく一礼して枕もとを去る。
静かな夜だった。
冬が深まり、虫の声も聞こえない。
そこにある静粛は、とても穏やかなもので……
襖の隙間から漏れる月明かりが、今ここにいることの現実味のなさを増長していた。
ゆっくりと目を閉じる。
次第に意識が落ちていき、それをまるで死んでいくようだと思った。
そして夢を見る。
夢の中で、四十路男が妻になにかを言っている。
差し出した花束。
台所に立つ髪の長い女性が、こちらを振り返る。
いくら目を凝らしてその顔をみようとしても、はっきりしない。
こげ茶色のきれいな長い髪。少しすねた、涙交じりの声。
ああそうだ、「一生ずっといっしょにいよう」そう言ったのだ。
最後の結婚記念日。うまくいかない不妊治療にすり減っていた妻が、初めて泣き言を言った日だ。
ずっと一緒にいると誓った。
子供に恵まれなくても、幸せな夫婦として過ごそうと抱きしめた。
そのわずか十日後に、あの事故が起こったのだ。
……勝千代が死んだら、彼女にまた会うことができるのだろうか。