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冬嵐記  作者: 槐
第一章
3/281

1-3

 次に意識が戻った時、ぬくぬくとした寝具の中にいた。

 戻り切らない思考でぼんやりと周囲を見回し、こちらを覗き込んでいる大柄な男の影に気づく。


 知らない男だ。

 そう思うのとほぼ同時に「ちちうえ」と、舌足らずな口調でつぶやいていた。

「お勝、しっかりいたせ。父が参ったからには何も心配ないからな」

「それ以上近づいてはなりません。うつる病にございます」

「何を言うのだ! お勝が苦しんでおるのに……」

「若のお世話をしていた者が、軒並み同じ症状で寝付いております。死んだ者もおります。どうかご辛抱くだされ」

 その声は知っている。勝千代の胸を蹴飛ばしてくれた叔父だ。


 助かったのか? そう思えたのは一瞬だった。

 悲嘆にくれる父の声が遠ざかり、その背後にいる叔父の冷ややかな目がこちらを見る。

 事情はすぐに察した。

 父が戻ってきたので、勝千代の窮状が気づかれないよう手を回したのだろう。


 知らない場所だった。部屋は暖かく、隙間風もない。

 肌触りのいい布が何枚もかけられ、その重みに押しつぶされそうだった。


「はよう死ね」

 少し離れた位置に控えていた桂殿が、怨嗟に満ちた声でそう言い捨て、父の後を追った。


 しばらくぼうっと閉められた襖を眺めていると、再び静かに開けられて、礼儀正しく一礼して男が入ってきた。

 その後ろから坊主頭の男。荷物を掲げた若い男、の順で入室してくる。

 坊主頭の男は見たことがある。あとの二人は知らない顔だ。


「薬湯をお持ちしました」

 坊主頭が神妙な口調でそう言って、背後の助手らしい若者に目配せする。

 若者は視線を下に向けたまま、掲げ持っていた盆を膝の前において深々と頭を垂れた。


 飲んではいけない。

 差し出された蓋つきの茶器を見て、とっさにそう思った。

「少々苦いですが、飲まねば良くなりませぬぞ」

 何とか顔の位置をずらして拒否すると、薬を嫌がる我儘な子をいさめる調子でいなされる。

 臥所から抱き起され、口元につけられた薬湯を拒否し続けることは難しかった。

 背中を支えるふりをしている若者が、肉のない脇腹を強くつねった。

 血が出るほどの痛みにあえぐと、さっさと口の中に薬湯が流し込まれる。


 毒かもしれない、と思っていても、水すらまともに飲まされていない彼には甘露だった。

 苦みのある液体が舌に染み込み、ほんの少しピリリと刺激を感じる。

 喉を下り、食道に落ちていき……ぐらり、と意識がたわんだ。

「ごゆっくりお休みください」

 遠くで、坊主頭が慇懃にそういう声を聞いた。



 そしてまた気づいた時には、もとの狭い小部屋に戻されていた。

 ヨネが心配そうにこちらを見下ろし、勝千代の意識が戻ったことにほっと表情を和らげる。

 彼女が手にしているのは丸められた小さな布。少しずつ水分を口に含ませてくれていたらしい。

「……ヨネ」

 声はかすれ、ひどく弱々しかった。

 もうこの身体が長く持たないことはわかっていた。

 毎食の粥の中にも毒が仕込んであったのだろう。腹を焼く痛みはずっと続いていて、それが尋常のものではないとわかってしまった。


 勝千代が死んだら、この老婆はどうなるのだろう。

 慣れとはたいしたもので、はじめはホラーだと感じていた容貌も気にならなくなっていた。それよりも、悪意に満ちた城中で、唯一勝千代を思ってくれる大切な存在だった。

 喋れず手足も不自由な彼女が、この先どうなってしまうのか心配で。

 しかし、遠ざけてしまう勇気はない。

 一人ぐらい、この子を看取ってくれる者がいてもいいではないか。

 身勝手な言い訳を心の中で繰り返し、罪悪感にまなじりが下がる。

「ありがとう」

 舌足らずに囁く声に力はない。

 ふるふると左右に振られる白髪交じりの頭が、勝千代の言葉を聞き取ろうと口元に近づく。

「わたしが死んだら」

 ぎょっとしたように見開かれたその目は、片方濁っている。

「気づかれる前に、ここを去るんだよ」

 おそらくきっと、口封じに処分されるだろう。勝千代は嫡男で、本来であればこんな風に扱われる身分ではないのだ。

 再び大きく首を振る老女に、ほんの少し唇を上げて笑みを向ける。

「ヨネも少しやすんで」

 夜明け前の薄闇の中、涙ぐむ老婆に親しみの目を向けて。

「大丈夫。まだ生きているから」

 瀕死の状態であっても、人間はなかなか死なないものだから。


 ホロホロとこぼれる大粒の涙は、しわとシミだらけの浅黒い肌をまだらに染めていく。

 それを見られまいと顔をそむけたヨネが、小さく一礼して枕もとを去る。

 

 静かな夜だった。

 冬が深まり、虫の声も聞こえない。

 そこにある静粛は、とても穏やかなもので……

 襖の隙間から漏れる月明かりが、今ここにいることの現実味のなさを増長していた。

 ゆっくりと目を閉じる。

 次第に意識が落ちていき、それをまるで死んでいくようだと思った。


 そして夢を見る。

 夢の中で、四十路男が妻になにかを言っている。

 差し出した花束。

 台所に立つ髪の長い女性が、こちらを振り返る。

 いくら目を凝らしてその顔をみようとしても、はっきりしない。

 こげ茶色のきれいな長い髪。少しすねた、涙交じりの声。

 ああそうだ、「一生ずっといっしょにいよう」そう言ったのだ。

 最後の結婚記念日。うまくいかない不妊治療にすり減っていた妻が、初めて泣き言を言った日だ。

 ずっと一緒にいると誓った。

 子供に恵まれなくても、幸せな夫婦として過ごそうと抱きしめた。

 そのわずか十日後に、あの事故が起こったのだ。



 ……勝千代が死んだら、彼女にまた会うことができるのだろうか。


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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
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