遠江 朝比奈領 寺へ1-1
早朝の身が引き締まるような寒さの中、今日は雲一つない快晴だった。
吐く息が白く、ざくざくと霜を踏んで歩く音が小気味良い。
一朗太は湿った土の上に膝をついた。
まだ修復までは遠い四つ足門から、ひときわ異彩を放つ集団が歩を進める。
御前様の家臣たちは普段から公家風の装束だが、こうやって改めて身支度を整えれば、誰もかれもに絵巻物から出てきたような、近寄りがたい威圧感があった。
「年寄は朝が早うてすまぬな」
御前様の低くて太い声が頭上から掛けられる。
一朗太は更に深く頭を下げた。
「とんでもございませぬ。わざわざご足労頂けます事、姉もきっと光栄に思うております」
ふと、奇妙な沈黙が落ちた。
一朗太は、御前様からの御答えがないことに不安を感じ、視線をあげそうになった。
「一朗太」
「……はっ」
「どないした」
何を問われたのかわからず戸惑っていると、視界に革沓の先端が見えた。はっと身を縮めて片膝だけではなく両膝をつくと、伸びてきた扇子が顎にかかる。
目を伏せるべきだった。ご尊顔を直視するなど恐れ多い。
だがそんな良識が吹き飛ぶほど、間近で見た御前様の眼光は鋭かった。
「ひどい顔色や」
もう何度そう言われただろう。
一朗太は反射的に頬の筋肉を緩め、笑みの形を作った。
「少々緊張しております」
まるっきり嘘というわけではない。一朗太にとって、初めての大きな仕事だ。きちんと勤めを果たし、無事お屋敷にお戻りいただくまで、気は抜けない。
御前様は濃鼠に白茶の狩衣姿で、傍らの侍従が美しい葦毛の馬を引いていた。まさかこれで行くのか? てっきり母屋の前に用意されている立派な輿に乗るとばかり思っていたが……。
視線が輿のほうを向いたことに気づいたのだろう。御前様は「ああ」と頷き振り返った。
「輿にはお奈津が乗る」
「そ、それは」
「大勢の中に置くのはまだつらいやろう」
とんでもないと断ろうとして言葉に詰まった。御前様の仰る通りだからだ。
一朗太は、そこまで考えていなかったことに恥じ入った。奈津は下村に守らせ馬に乗せようと思っていたのだ。それが負担になるなどわかり切った事なのに。
せめて駕籠でも用意しておくべきだった。
「……お気遣いいただきありがとうございます」
俯いてしまった一朗太に何を思ったか、御前様はそれ以上何も言わなかった。
ゆっくりと進む行列は、順調に目的地に向かっていた。
姉が埋葬された曹洞宗の寺までは、そう遠くない。長めに寺に滞在したとしても、夕方までには戻れる距離だ。
道中に難所はなく、比較的見晴らしがよいので、護衛をするにしてもそう難しくなかった。
これだけ準備をしたのだから、きっと何事もなく終わる。そう思っていた矢先。
幾度目かの休憩の最中、風よけの板の側にいる御前様をさりげなく見守っていると、横田が小走で近づいてきた。
「不審な男がいます」
小声のその警告を聞いて、周囲が一斉に緊張する。
仲間たち以外からも視線を浴びた横田は、ゴクリと喉を鳴らしてから、下村の耳元で何やら囁いた。
一朗太は無意識のうちに刀を手に取り、それはその場にいた他の大人たちも同様だった。
急いで腰に差し、警戒の視線を周囲に巡らせる。
だが特に変わった様子はなく、大勢の兵たちが決められた位置できちんと警備をしているように見える。
横田に小声で指示を返した下村は、大股に一朗太のもとへ近づいてきた。
「朝比奈軍の足軽組頭が、戸田と石崎というそうです」
そっと耳元で囁かれ、二人のように無表情を保つことが出来ずに顔がこわばる。
小声で話していたのはそれが理由か。
「不審な集団がこの行列のあとをつけているようです。おのおの方、万全のご注意を」
下村は、訝し気な顔をしている周囲を見回して、さらなる警戒を促した。
一朗太は下村に促され、その場を離れた。歩きながら、ぶるぶると手足が震え始めるのを感じた。
戸田一徹、石崎与助。例の書付にあった二つの名前だ。重臣ではない残りの二人。
その者たちが書付にあった者なのか、本当に姉上の件にかかわっているか、詳し事を調べた方がいいのはわかっている。
だがそれは、ついたばかりの傷に塩をねじ込まれるようなものだった。
込み上げてくるのは、痛みであり、憎悪の波だ。その感情は、自身でも抑えきることが出来ないほど激しいものだ。
ずんずんと勢いに任せて歩いていた一朗太の腕を、下村が掴んだ。
「若」
強い口調で呼ばれて、はっと我に返る。
「見られております。落ち着いてください」
大丈夫、落ち着いている。大丈夫。
一朗太は呼吸を整えてから頷いた。
「その戸田と石崎は、書付にあった二人だと思うか?」
「わかりません。とくにめずらしい姓でもありませぬ故」
確かめる方法は、下の名を聞くことだ。
先走るわけにはいかない。真の敵を討ちもらすわけにはいかない。
一朗太は努めて冷静に、「そうだな」と頷き返す。
「もし我らが捜している者たちなら、何が目的でこの隊列に加わっているのか、目を光らせておく必要があります」
下村の言葉を聞いて、背筋に冷たいものが走った。
そうか。これが偶然だとは言い切れないのだ。
たまたまふたりが勤めを割り振られた可能性はないでもない。同時に、奈津か御前様を狙っているのかもしれなかった。
一朗太はさっと、御前様がいる方角を振り返った。
周囲には、御前様ご自身の護衛たちと、それを囲うように武士たちが控えている。
その誰かが戸田と石崎かもしれない。
一朗太は、ぐっと腹に力を込めた。
塩をねじ込まれるぐらいなんだ。仇の顔も知らない、やった事も定かではないなど、敵討ちだなどと言う資格はない。
そもそも足軽組頭ならば下役なので、姉上たちの件ではただの下っ端だった可能性が高い。
勢いに任せて首をはね、上役までつながった糸を断つ訳にもいかない。
「今は様子を見よう、奈津や御前様に何かをするようなら捕縛でいいだろう」
あくまでも『今は』だ。
下村はじっと一朗太の顔を見降ろしてから、「はい」と力強く同意した。
 





 
  
 