遠江 朝比奈領 宿屋5
下村の様子がおかしいことに気づいたのは、翌日の墓参りに備えて、御前様側の護衛との話し合いをした帰りだ。遅くまで掛かったので、新しい宿にたどり着いたのはもうだいぶ遅い時刻だった。
後から聞いたところによると、取り調べを受ける轟介の様子をこっそり見に行ったそうで、その態度もさておき、内容のほうに衝撃をうけたようだ。
詳しく話せと言ったのだが、「気持ちの整理をするまで待ってください」と頭を下げられた。
こんな風になった下村を翻意させるのは難しい。
伯父の生え際にいくらか白髪が増えていることに気づき、問い詰めようとしてやめた。
聞くのが怖かったというのもある。きっと岡部家にとってよくない話だ。
だがおそらく、一朗太も知っておかなければならないことだ。
珍しく、先に休みたいという下村に、皆が心配そうな顔をしている。
一朗太ができるのは、「ゆっくり休め」と言って頷くことだけだった。
夜半。単身で出かけようとする下村を捕まえた。そんな思い詰めた顔をして、気づかれないと思ったのか。
「どこに行く」
そう声を掛けると、片足だけ草履に足を突っ込んだ状態で、しまったという風に振り返った。
同じ部屋で寝起きしているんだぞ。気づかないわけがないだろう。
「……若」
下村の顔は青いを通り越して血色がなく、こぼれた声は苦しそうだ。
自然と、一朗太の表情もこわばった。
「何を聞いた」
そう問うと、下村の全身が細かく震え始めた。手に握った刀が上がり框に当たって、カタカタと音を立てている。
「……言えませぬ」
やがて絞り出した下村の声はしわがれ、聞き取れないほど小さかった。
そうか。それほどのことを聞いたのか。
一朗太は頷き、「しばらく外に出てくる」と横田に告げた。横田は何か言いたげだったが、無言のまま頷いた。
この町は比較的人の多い街道沿いだが、賑やかなところばかりではない。
特に夜半を越えた今の刻限は、たいていの者ものが寝っているのでひどく静かだ。
倉庫や夜間は閉まっている小規模の店舗が並ぶ通りを抜けると、日中は町の女衆が洗い物をする小川がある。
その周辺は民家もなく、真夜中なので人はおらず、ただ二人分の足音だけが聞こえた。
川べりにたどり着き、びゅうと吹き付ける風に目を細める。
寒い。風が当たっている部分が、まるで刃に切りつけられたように痛い。
寒さを堪えるために身を固くして、そのまま静かに息を吐いた。
頼りない月の明かりに、白い息が風下に流れていくのがぼんやりと見えた。
「……父上のことか。姉上のことか」
覚悟を決めてそう問うと、黙って付き従っていた下村がひゅっと息を飲んだ。
なおも黙りこんでいるので、振り返る。
「知らずに済む事ではないだろう」
下村の表情はまったく見えない。付きの明かりは乏しく、おそらく下村のほうからもこちらの顔は見えないだろう。
それでも喋りたくないようすの下村に、一朗太は小さく息を吐いた。
ここなら誰も聞いていない。一朗太以外の耳には届かない。それでもなお口ごもっているのは、聞かせたくないのもあるだろうが、そもそも口にもしたくないのだろう。
覚悟を決めろ。一朗太はもう一度自身に言い聞かせる。これはよほどのことだ。
下村はなおもしばらく黙っていたが、やがて諦めたように「はい」と呟いた。
目を閉じる。
激しく渦巻く痛みは、実際のものではないのに、まるで本物の刀でグリグリと抉られているような気がした。
「かさね屋か」
「はい」
下村の声は低く、くぐもっている。
一朗太は大声で叫びたい欲求をぐっと堪えた。
取り調べの間、轟介は知らぬ存ぜぬと随分な態度だったそうだ。それどころか、まるでこちらが難癖をつけてきているように、堂々と言い返してきたとか。
取り調べを行った朝比奈の将は引かず、昨日まではいた取り巻き連中がいないなと詰問したのだが、それに対しては「最近雇った護衛だから、飛んだのだろう」としれっと返してくる。
あまりにも傲慢なその態度に辛抱できなくなって、掛川城に連行しようとすると、今度は御前様のお名前を出してくる始末。
だがあらかじめ備えていたのだろう質問以外の返しは、場当たり的で杜撰だった。
破落戸のようなあの男たち、忍びも交じっていたあの連中の素性は、口入屋による短期雇いなのだそうだ。
轟介の口から『かさね屋』の屋号が出てきた段階で、下村にとって日向屋が厄介な商人から敵に変わった。
そして轟介は更に、岡部家について、「坊主に身体を売るような女がいる御家」と言ったのだ。
うすうす勘付いてはいた。奈津がひどく怯える様子から、僧侶と何かあったのではないかと。
少し前に、門徒らが問題を起こし寺がひとつ消えたと聞いたが、時期的に勝千代殿が掛川あたりにいた頃で、姉上と奈津を保護したと連絡があった時期と一致していたから、かかわりがあるのではと思ってはいた。
べらべら喋る轟介の口を塞いだのは、その場にいた副番頭だ。
例によってひたすら頭を下げながら、非礼を詫びてくる。
だが咎められる証拠はない。以後はおとなしくさせるからと、連行されるのを拒んできた。
そして朝比奈側はその言い分を受け入れ、引いたのだ。
「下村」
一朗太は、痛む胸に手を置いて、静かに言った。
朝比奈としては、探している相手と関わってはいないようだということと、御前様の機嫌を損ねる可能性を厭うたのだろう。
轟介に問題行動はあるが、その詮議に時間を掛けることはできない。そう考えた彼らの思惑はわからないでもない。
だが、岡部家にとっては話が別だ。
大声で姉上を辱められて、黙って見過ごすことはできない。
「掛川に連れていかれず、かえって良かった」
月明かりの乏しい夜なので、互いがそこにいることぐらいしか分からなかったが、下村が夜半に出かけようとしていた意味はわかったし、そう返した一朗太の意図も伝わっただろう。
「なりませぬ。若が手を汚すような真似をせずとも」
「なぁ、下村。……いや伯父上」
勝千代殿が、詳しい事情まで伝えてくれなかったのは、このことがあったからか。
姉上がどういう目にあっていたか、一朗太が知らずに済むように配慮してくれたのだ。
その優しさをありがたいと思うと同時に、己よりもずっと年下の勝千代殿に気をつかわれた自身が情けなかった。
「父上は、ご存知だったのだろうか」
問わずともわかる。もし知っていたら、たとえ二人を人質に取られていたのだとしても、諾々と言われるがままに動きはしなかったはずだ。
父上はただ必死に、姉上と奈津を取り戻そうとしていた。だから福島親子を殺そうとしたのだ。……誰に命じられて? それはきっと、姉上と奈津をそんな目に合わせた連中とつながっている。
「轟介からはまだ聞き出せることがある。そうだろう?」
かさね屋について。福島家の噂話をバラくように指示してきた相手について。
うまく聞き出せば、さらにその先につながるかもしれない。
一朗太は努めて平静な声を装ったが、口の中には錆びた血の味が広がっていた。




