遠江 朝比奈領 囮の餌2
相手も用心していたと思う。何しろ今は朝比奈軍がひっきりなしに行き来しているからだ。
だが誰に聞いても、間を置かず襲ってくるだろうと予想した。
国をまたいで行商している商人と、ここが本拠地でもない岡部家では、そうそう仕掛ける機会がない。仮に集めた全員が忍びではないにしても、雇い続けるにはかなりの銭が必要だということもある。
味方からの合図があったのは、夕刻にはまだしばらく時間がある、日差しが陰り始めた頃だった。
ようやく動きがあったか。いい加減散歩も終わりにしたかったのだ。
一朗太は、決めていたとおりの経路をたどって町はずれまで来た。お屋敷のある隣町に向かう道だ。
そう言えば、前に轟介とすれ違ったのもここだった。
一朗太は黙々と歩きながら、絡まれそうになった時のことを思い出していた。
意図して同じ舞台を用意したわけではない。
人気のないところをお望みのようだったので、その通りにしただけだ。
そもそも、朝比奈軍の目を躱して大勢を動かそうと思えば、襲撃する地点も限られてくる。
予測ができれば、待ち伏せも罠も張り放題というものだ。
あっという間に周囲が薄暗くなってきた。
町を出てしばらく歩くと、大きく蛇行した道の左右をすすきと藪の茂みに囲まれた場所にさしかかる。
素人でもわかる誘導に、あっけなく引っ掛かってくれたのはすぐにわかった。
下を向いて歩いていても、背後から大勢の足音が迫ってくるのが聞こえる。
用心しているのか、その足並みはゆっくりで、確実に周囲から見えなくなる場所を狙っているのだろうが……残念だな、既にこの周辺は囲われている。
一朗太は、道半ば程まできたところで足を止めた。
北風がヒュウと耳元を切って行く。
風が当たる耳たぶが痛い。頬も痛い。
振り返ると、はっきりと顔の造作がわかる程度の距離に、手ぬぐいで覆面をした二十数名の男たちがいた。
ザアアアと枯れ藪が揺れる。
綿毛を落としたすすきの群生が風にあおられ、道に不気味な影を落としている。
弱い日差しに照らされて伸びたその影は、揺らめく無数の人影のように見えた。
向かい合って、数呼吸。
風に合わせて影がざわめく。
この場にいるのは一朗太と横田、それから向かいあう二十人ほどの敵だけのはずなのに、視界の両脇を塞ぐすすきの群生が、無数の人の喧騒のようにざわめき、影を揺らしていた。
きっかけは、横田が刀の柄に手を掛けた事だった。
「……殺れ!」
敵の誰かの掛け声がして、二十人ほどが一気に駆け寄ってくる様子は、本音を言えば後ずさりたくなるほど恐ろしかった。
だが引かない。
一朗太は、草履の鼻緒あたりに力を込めて、その場で踏ん張った。
そっと刀に手を掛けて、習った通りに身構える。
横田が抜刀した。一朗太はまだ粘った。戦いに躊躇ったわけではなく、敵より先に刀を抜くなど負けのような気がしたからだ。
敵が走りながら刀を抜く。一朗太も、迎え討つために手のひらに力を籠める。
互いの刃が届くまでには、まだ少し距離があった。
そんなとき、敵の挙動が変わった。
ドドドドド!
背後から、いや四方から、大勢の足音がする。
一朗太が見ている真正面の敵が、臆したように背後を振り返った。
見覚えのある連中が声を上げながら駆けてくる。
下村をはじめとする岡部家の家臣たち。親しくなった天野家の家臣たち。
すすきをかき分け飛び出してきたのは、田所とその配下ら、そして朝比奈軍。
そして一朗太の背後からも、想定していたよりも多い数の兵らが、武装し槍を握って突進してくる。それはさながら、戦場のような気合の入れ方だった。
敵が及び腰になったのがわかった。
逃げ場を探して視線が動いている。
残念だな。ぐるりと網のように囲った。逃げるならどこかを突破しなければ無理だ。
おそらく、一番狙いどころは一朗太と横田だっただろう。
だがその背後から迫ってくる軍勢は、はっきり目視したわけではないが敵の数よりも多い。
人質にとろうかと躊躇したのだと思う。その迷いが、彼らの運命を決した。
血しぶきが上がった。
一番槍となったのは横田だ。
一朗太を守るように、敵との間に壁となって立ち、先制攻撃の一太刀。
枯れすすきが血の色に染まる。だがそれは、冬の早い日没に紛れて、あっと言う間に見えなくなった。
「轟介がおりませぬ」
その場に立っているのが味方だけになってしばらく。
下村の言葉が頭にしみ込むまでに時間がかかった。
直接敵と切り結んだわけでもないのに、一朗太の息は荒く、心臓はいまだ激しく脈打っている。
月が雲に隠れているので、声がした方を見ても下村の表情はわからなかった。
「用心深い奴め」
チッと舌打ちしたのは田所。
なんでも、町を出るまでは確かにいたのだそうだ。この男の目を躱して危機を回避するなど、用心深いで片付けることが出来るのだろうか。
まさか轟介まで実は忍びだったというオチはないだろうな。わざと横柄な態度をとっていたとか? ……あり得なくはない。
「日向屋の轟介とやらの取り調べをするべきだな」
そう言ったのは、暗くてよくわからないが、おそらく朝比奈の将だろう。
彼らはこれから、日向屋の商隊が宿泊している宿に向かうそうだ。
下村に同行するように命じた方がいいだろうか。……いや。
根付を受け取るために、銭を用意させなければならない。仕事をしてくれた分は、きちんと支払う。
一朗太は、すっかり夜の色に染まった周囲に目を凝らした。もはや骸も岩も血しぶきもはっきりとは見えない。
だが、確かにここで命のやり取りがあった。
暗がりに転がっているのは、一朗太を殺そうとしていた敵だ。
そう思うと同時に、生き残ったのだ。敵を屠ったのだという高揚感が込み上げてきた。
いや、浮かれている場合ではない。
この男たちは所詮雇われだ。大元を断たなければ勝ったとはいえない。
朝比奈軍の将は、もしかすると探し人の関係者かと思っています
田所は、うまく轟介を追い込み、いろいろと聞き出したいと考えています




