遠江 朝比奈領 宿屋4-2
その時、一朗太は深い眠りの中にいた。
日々の疲れが蓄積していて、ちょっとやそっとでは起きる気配はなかったと思う。
実際、激しく揺すられてもすぐには目が開かなかった。やがてなんとか瞼は持ち上げたものの、意識はまだ夢の中だ。
「……若っ」
何度目かに耳元で怒鳴られ、なおかつ強引に立ち上がらされて、ようやく目の前にいる四角い顔が横田のものだと気付いた。
なんだよもう、こんな刻限に。
苦情のひとつでも言ってやろうと口を開きかけて、鼻が煤けた臭いをかぎ取った。
急激に意識がはっきりする。
「火事です! 付け火です! 急いで避難を」
ほぼ引きずられるようにして部屋から出た。すでに廊下はものすごい煙だ。
火事だというのは見ればわかる。だが付け火?
頭をよぎった疑問は、すぐにわきに追いやられた。
見れば階段の降り口のほうからもうもうと煙が流れてきている。まさか一階は既に火の海なのか?
横田が「付け火」と言った理由はすぐにわかった。
むっと鼻を刺す油のにおいが漂ってきたからだ。
なんでも夜中に厠に行こうと階下に向かい、床がベタベタするほどの油が厨近くの廊下にまかれていることに気づいたのだそうだ。
その時はまだ、火の勢いはまだそれほどではなかった。
すぐに消火するか、火事だと皆に警告するか迷ったのだが、まかれた油に火花が落ちるのを見て、すぐに二階に戻ったそうだ。
「一朗太殿!」
隣室から、同様にたたき起こされたのだろう小四郎殿が飛び出してきた。
何がどうなって、と聞こうとしたのだと思う。だが煙を吸い込んで咳き込み始める。
「退き口は?」
一朗太はそんな年下の少年の背中に手を置きながら、こんな刻限なのにきちんとした身なりの下村を振り返った。
階段の上から下の様子を覗き見ていた下村が、険しい表情でこちらを向く。
「その連子窓を壊し、隣の屋根伝いに脱出しましょう。階段を使うのは危険です。どこまで火が来ているかわかりません」
この宿屋は左右の建物と壁を共有している。出入口は通りに面した一方向と、坪庭あたりに裏口があるのかもしれないが、厨に近い場所だし、確認したわけでもないし、その方角に火が回っていたら逃げ出しようがない。
「わかった」
一朗太が頷くと、周りはすぐに動き始めた。
横田らの手で雨戸が外され、一気に外気が吹き込んでくる。
それでようやく、尋常でなく宿屋の中が温かくなっていることに気づいた。
どうやら階下に火が回ってきたようだ。二階が燃え始めるのも時間の問題だろう。
「申し訳ございません、先に火を消すべきでした」
ガンガンと格子を破壊し始めた仲間たちを見ながら、横田が謝罪してくる。
いや、油を撒かれていたというから、遅かれ早かれこうなっていただろう。
一朗太は軽く首を振った。
「それよりも、誰がこんなことをしたかだ」
無作為に選ばれた? いや、外から火をつけるだけでも十分だっただろうに、ご丁寧に厨にまで入り込み、油を撒いているのだ。この宿を狙ったのは確実だろう。
頭に過ったのは、田所の忠告。轟介の顔だった。
すっかり忘れていた己に歯噛みする。
「……火付けは重罪だ」
文字通り、火の粉を払うぐらいは許されるだろう。
怒りとともに轟介への対処を考え始めたところで、格子がすべて外れた。
屋根伝いと簡単に言うが、火の手からいったん逃れたとしても、屋根から降りるのは大変だ。
岡部家の二人と、天野家の三人が高所から飛び降りる時に軽い怪我をした。
それだけで助かってよかったと思うべきかもしれないが、深夜の眠り込んでいるところをたたき起こされて、冗談では済ませられない火付けに巻き込まれ、誰もがもの凄く険しい表情だった。
いや正確には、巻き込まれたというよりも狙われたのだ。そう思うと、よりげんなりしてしまう。
「宿の者たちは、火傷はしておりますが、無事に逃げることが出来たようです」
横田の報告に、ほっと息を吐いた。悪くない知らせだ。
改めて数日世話になった宿のほうを見ると、一階出入り口から煙があふれ出ている。赤い炎もチラチラと覗いている。
このままでは他の宿にまで延焼してしまうので、総出での消火が始まった。
これだけ火が大きくなってしまえば、水をかけて火を消すのは難しい。建屋全体を壊すという判断は、この手の建物のばあい大掛かりな作業になってしまうので避けたいが……。
やがて火元の消火は諦め、延焼を防ぐために水を撒くという作業に入る。とはいえ、人の手で桶を運ぶという作業はなかなか大変で、効果もそれほど期待できない。
そこかしこから、悲嘆の声が上がる。見るからに火の勢いが増していた。
今日は風が強いのも良くなかった。このままではあっと言う間に、辺り一帯に燃え広がってしまうだろう。
ふと空を見上げた。風に湿気を感じたからだ。
この季節、雨はあまり降らない。昨日みぞれと雪が降ったので、それほど期待できないと思っていたのだが、夜空は深い闇色をしていて、それは雪雲に見えた。
雨が降ってくれれば、いやせめてみぞれでもいい。
そんな大勢の願いがかなったのか、しばらくしてぽつぽつと雨が降り始めた。
肌に当たる雫は氷のように冷たいが、雪ではない。みぞれでもない。
人々は凍えながらも、煤で汚れた顔で歓声を上げた。
静かな雨は、一晩中降り続けた。




