遠江 朝比奈領 寒月屋敷3-2
姉上に会いたい。
唐突に強くそう思ったのは、奈津にまた悲鳴をあげられたからだ。
姉上が生きていれば、こんな事にはならなかった。
部屋の隅で女中に縋り付き、震えている妹を見て、こちらも泣きたくなった。
「奈津」
努めて感情を抑え、柔らかな口調で名を呼ぶ。
「おばあ様のところへ行こうか」
震えている奈津に反応はない。
「そのほうも知っているだろう。静かな村だ。怖い者など誰も来ない」
己を含めて、とは口にしなかった。
数日通ってわかったことがある。奈津は武士が怖いのだ。万事を側に起きたがる理由は定かではないが、女中や公家の恰好をしている者には怯えた様子を見せない。
だから今日は、部屋に入る前に刀を置いてきた。
直垂姿は仕方がないにしても、せめて奈津を傷つけたりしないと知ってほしくて。
それでも駄目だった。一定以上の近くに寄ろうとすれば、頼りない悲鳴が上がる。ガタガタと歯の根も合わない怯えぶりが切ない。
きっと妹も、努力はしているのだ。
部屋に入っても良いかと問えば頷き、土産を手渡したいと言えば「はい」と返事もしてくれた。
それでも、本人の意思に反して働く根強い恐怖はどうしようもない。
「心づもりをしてほしい。いつまでもここでお世話になるわけにはいかない」
この調子で旅ができるのか。普通の足でも数日は掛かる距離だ。
やはり万事に付いてきてもらうしかない。認めたくはないが、奈津にはあの男が必要なのだ。
それから、楓という若い女中。随分と奈津は彼女を信頼している。聞いたところによると家族が駿府にいるそうで、道中までの同行は頼めそうだ。
「途中に姉上を葬った寺がある。無理に参らずともよい。遠くから手を合わせて、次に来たときに会いに行けばよい」
震え続ける奈津を見つめて、優しく声を掛ける。
「先に、奈津の代わりに姉上に挨拶を済ませておく故、心配するな」
焦ってはいけない。すぐに結果が出ると思ってはいけない。
いつか立ち直れることを信じて、静かに見守るのが兄の務めだ。
「明日か明後日にでも行ってみる。姉上の好きな山百合の花が咲く季節ではないのが残念だ」
明日の昼過ぎ、馬を駆りて寺まで行く予定だった。
姉上の墓に参るのと、住職に話を聞く為だ。
どうやら少し前に、この町を含む広い範囲で大きな騒動があったようだ。
詳しい話はだれも喋りたがらないのでよくわからない。
どうやら、武士だけではなく町人も巻き込む騒動だったようだ。
おそらく、姉上と奈津をさらった連中の多くは、その時に捕まったのだろう。
捕まえた朝比奈家の重臣たちがこの件にかかわっているとなれば、本当にその者たちが処分されたのか怪しいものだが。
いろいろな噂話が広がっている。口に出すのもはばかられる内容もある。
幸いにもそれらは朝比奈家や本願寺についてのもので、姉上や奈津が巻き込まれたという話はきかない。
もしかすると、誰かがそうなるように、噂を調整してくれたのかもしれない。
部屋を出ようとしたとき、「あにうえ」とか細い声が聞こえた。
予想もしていなかったので、勢い良く振り返り、不安になるほどやせ細った奈津がビクリと震えた。
「……なんだ、奈津。どうした?」
怯えられていることに改めて胸を痛めながら、できる限り優しい口調で問い返す。
奈津はしばらくぶるぶると震えるだけだったが、青ざめたその顔を女中の背中からわずかに出し、はっきりと一朗太のほうに視線を向けた。
目が合った。それだけで、一朗太の目に涙の幕が張った。
気づかれないように瞬きしながら、黙って奈津の返事を待つ。
「参ります」
耳を澄ませてようやく聞き取れる声だった。
「明日、ともに参ります」
かつては耳を塞ぎたくなる声量でよく笑い、母上の口癖をまねて一朗太に説教をしてくるような妹だった。
「そ、そうか。それでは明日にでも」
家族全員が健在だった日々を思い出し、情けなくも声が掠れてしまったが、笑顔を返せた。
奈津はすぐに女中の背中に引っ込んでしまったが、「共に行く」と意思を伝えてくれただけでも嬉しい。
一朗太はそそくさと部屋を出て、奈津に気づかれないように涙を拭った。
こらえていた嗚咽を飲み込みながら、足早に廊下を歩いていると、向こうから鶸が近づいてくるのが見えた。
この男はおそらくだが、忍びのような影働きをする者なのだと思う。だがそれにしては目立つ装いで、普通に足音を立てて歩いているが。
「一朗太殿」
はっきりとわかる京訛りも、この男を奇異に見せている要因のひとつかもしれない。
「……はい」
嗚咽を押さえ、軽く咳ばらいをしながら返事をする。
「大殿様が、志乃様の墓に参られるのならご一緒されたいとのことです」
「えっ」
言いたいことだけ言って、「では」と軽く会釈をしてすれ違った。
一朗太は呆然とその場に立ち尽くした。頭の中が、何故なにどうしてと、疑問でいっぱいになる。
はっと我に返って、詳しい話を聞こうと鶸の後を追った。
だが、それほど間を開けずに廊下の角を曲がったのに、すでにその姿はなかった。
途中の部屋に入ったのか? いやだとしても襖が動く音はしなかった。廊下は長く先の先まで見通せる。さすがにこの距離を移動できる時間はない。
すごい。これが忍びの者か。
一朗太は曲がり角を出たところで立ち尽くし、「はぁ」と感嘆の息を吐いた。
いつのまにか、涙は引っ込んでいた。
 





 
  
 