遠江 朝比奈領 寒月屋敷3-1
朝比奈領に来た初日、兵糧と兵士を集めていたのは朝比奈兵。徐々にそれ以外の武士が増えていたが、今はまた朝比奈軍が物々しく動いている。
面白くなってきた、と小四郎殿は言う。
だが一朗太の目には、この騒動がもっと切羽詰まったものに見えた。
「……小四郎殿、しばらくお屋敷の警備を厚くした方がいいかもしれない」
宿屋から兵らの動きをキラキラした目で見ていた小四郎殿が、少し首を傾げてこちらを見た。
「お屋敷まわりの配備は厳重だ。これ以上の何かが起こるとは思えないが」
「そうだろうか」
誰かを探しているように見えるのは気のせいか? まさか、奈津を?
いやそんな事はないはずだ。奈津がいまだ御前様の保護下にあることは、敵も知っている。
「また襲撃しにくるやもしれぬ」
誰が、とは口にしなかった。小四郎殿は頷いて「用心するに越したことはないな」と同意した。
宿からお屋敷に向かうまでの短い道中、三度も朝比奈兵とすれ違った。最初は明るい表情をしていた小四郎殿も、三度目にジロジロと見られて顔をしかめている。
思いのほか数が多い。いや多いなとは思っていたのだが、すれ違った数だけでも百人を超える。この町だけではないと考えると、千人規模の兵が動いていそうだ。
三河と甲斐に兵を出し、なおそれだけの数を動かせる朝比奈家は、さすが今川家随一の譜代だ。
飯屋の噂を丸ごと信じているわけではないが、そんな朝比奈家の足元をすくう大騒動が起こったのなら、混乱に乗じて何があってもおかしくない。
昨晩みぞれから雪になり、薄く積もった真冬の道を進む。
一朗太は滑らないよう足元を見て歩きながら、これからどうすればいいのかと考え込んでいた。
奈津のこと。敵の四人のこと。……姉を弔ってくれた住職に話を聞けば、いくらかわかってくるだろうか。
屋敷の前にたどり着いたとき、そこには人だかりがあった。遠目には、職人たちが門扉の修理を始めたのかと思ったが、漏れ聞こえてくる声はどうやら違う。
「……こんな恥かかせて」
話している意味はわからずとも、聞き覚えのある京訛りの声に、事態を大体察した。
人垣の外側で足を止め、門番をしていた武士に偉そうな態度で抗議している若い男の後ろ姿を眺める。
「侍従様よりのご指示だ。騒ぎを起こす者は出入り禁止だ」
門兵が、遠目にもわかるほど怒りをにじませた声で怒鳴った。
「なんやと!」
轟介は反射的に門兵につかみかかろうとしたが、さっと槍を突き付けられてますます怒りに顔を染めた。
商人が武士にたてつくなど見たことがない。少なくとも今川領では、武士より商人が偉そうにするなどあり得ない。
もしかすると轟介は武士の出か? その気分が抜けないのだろうか。
門兵だけで解決できるのならそのほうが良かったのだが、轟介は引かなかった。
どうする? 介入するか?
これ以上の厄介ごとを背負うのは遠慮したいが、見ないふりをするわけにもいかない。
一息ついて、人垣をかき分け前に出た。
「……あっ」
一朗太を見て、門兵が「しまった」という風な顔をした。ここ数日、雑多な家門の調整をしてきて、多少は顔を知られていたようだ。
「なんや」
轟介は鼻息荒くこちらを振り返って、一朗太を見て「また小者が来た」と言いたげに顔をしかめた。
「この落とし前はどうつけなさる。もっと上のほうのお方を連れてき」
轟介は最後まで言えなかった。一朗太が思いっきり脛を蹴飛ばしたからだ。
頑丈そうな身体つきの男でも、むき出しの脛は急所だ。……正確には、そこを狙ったところで死にはしないが、小柄な小十郎が真っ先に攻撃するのは王道だ。
こんな見た目でも、武士としての戦い方は学んできている。商人相手に臆することはない。
轟介はくぐもった悲鳴を上げて、その場に転がった。蹴りはいい場所に決まったらしく、足首を抱えてぬかるんだ土の上でもがいている。
「ぷっ」と小四郎殿が噴き出し、同時に岡部家の家臣たちの殺気がいくらか和らいだ。
衆目の中、こんな思い切った真似ができたのは、背後に彼らがいるという安心感があったからでもある。
一朗太は更に、無防備に伸ばされた反対側の脛に足を乗せた。
「まっ」
多分待てと言おうとしたんだろう。もちろん待たない。
その場に、轟介の野太い悲鳴が上がった。
草履越しに、骨が軋むのがわかった。もう一押し、そこに体重を掛けようとした時のことだ。
「お待ちくださいませ」
人垣をかき分けて、見覚えのある男が転がり出てきた。昨日すれ違った、職人と話をしていた商人だ。
無意識のうちに、一朗太は身構えていた。
だが改めて近くで見ると、痩せて小柄なその男は、どこからどう見ても平凡な、取り立てて警戒する必要もなさそうな容貌をしていた。
「お、お待ちくださいませ!」
男はぬかるんだ土の上に迷いなく四つん這いになり、そのままガバリと頭を下げた。
ぐちょり、と額が泥に埋まる音がする。
「その者の非礼、心よりお詫び申し上げます! 命だけは、どうか命だけはっ」
その男は、日向屋の副番頭だとのことだ。名は佐吉。
日向屋の一番若い番頭である轟介のお目付け役として、商隊に同行しているのだそうだ。
いたんだ、お目付け役。
やはりと言うべきか、そりゃそうだと言うべきか。
全方向に敵を作るような男が、商売に向いているとは思えない。このままだと日向屋の看板に取り返りがつかない傷がついていただろう。
佐吉が必死の形相で謝罪してくるものだから、今回だけだということで見逃した。
一朗太や門兵に対してだけならまだいいが、御前様の目に触れる場所で騒ぎを起こすなど、下手をすると首と胴体が切り離される事態になる。
「皆の気が立っている。言動には気を付けることだ」
その額にこびりついた泥を見ながら、つい余計な忠告をしてしまったのは、武士の世界にも商人の世界にも上下があって、お互いに上にも下にも気をつかう立場だと共感したからだ。
佐吉は何度も何度も礼を言い、頭を下げながら、不貞腐れた轟介を引っ張りその場を去った。
彼らが人垣に消えるのを見送って、そう言えばと改めて思い出した。
轟介が余計な噂をばらまいていることを伝えておくべきだった。それのほうが、今回の騒ぎよりもよっぽど大ごとになりかねないと。
人を向かわせようかと考えた瞬間、人垣の縁に見覚えのある男の姿があることに気づいた。
田所だ。佐吉と轟介の後ろ姿をじっと見ている。
……いや、忠告などしてやる必要はない。
大きな借りがある立場なのはわきまえている。福島家に反感を買うような真似をするつもりは毛頭なかった。




