遠江 朝比奈領 宿屋3
宿に戻り、濯ぎで足を洗って部屋に戻ると、神妙な顔の下村に迎えられた。
「申し訳ございませぬ」
床に頭を押し付けて謝罪する伯父に、軽く首を横に振る。
同じ状況になったら、一朗太も同じようにあの男に殴りかかっていただろう。
いや、帯刀していてよく抜かずにいられたな。
「……発作のように震えていた。線香の臭いが怖いようだ」
誰がといわずとも、奈津の様子だと察しただろう。
下げたままの下村の顎に力がこもり、首にぎゅっと筋が立った。
「岡部郷で静養させようと思う」
「はい。それがよろしいかと存じます。少なくとも、駿府にお連れするのは反対です」
もともとは、奈津のことも連れて駿府に向かう予定だった。これ以上人数を裂くわけにはいかないからだ。
岡部郷は掛川から駿府にむかう東海道の街道の途中にあり、岡部家が起こった地だ。既にその領地の多くは他家のものだが、村がひとつあって、そこには祖母が住んでいる。
岡部家の家臣の、働けなくなった者たちもいるので、せめて駿府での用が済むまではかくまってもらえるだろう。
問題はただひとつ。
「あの男が、奈津を狙ったという可能性は?」
「はい。大いにありえます」
簀巻きにした男の行く末を、下村は聞いてこなかった。
一朗太が許すはずがないという信頼からか、鶸らに預けたと横田にでも聞いたか。
実際、まだ生きているとは思うが、そう長くないだろう。鶸が男に向ける目つきを思い出して身震いする。
「刺客は岡部郷まで来ると思うか?」
「岡部郷のご老人方に任せても良いかと。少なくとも駿府よりは安全です」
「……そうだな」
一瞬、狙われている奈津がいれば、刺客の元を辿ることが出来ると頭を過ったが、もちろんそんな危険は冒せない。
奈津がおらずとも、いるふりをしておびき寄せればいいのだ。
「駿府の屋敷を売り、人を増やしたい。奈津を守り、今川館に探りを入れる助けになる者が良い」
「それは」
一朗太の脳裏に、万事の顔が過った。
胡散臭い男だ。奈津が頼りにしているから見逃しているが、全幅の信頼は置けない。……いや。
岡部家は多くの家臣を失くした。これから先、元の人数まで増やしたとしても、無条件の信頼は付いてこない。
万事でも、そのほかの誰かでも同じだ。その者が間者ではないとは言い切れないのだ。
「屋敷を売ってどうされるのですか?」
「仕官する。武官ではなく、文官に回されるかもしれぬ」
一朗太がもう少し幼ければ奥勤めもできたかもしれないが、弟のように奥付きの小姓になるには年が行き過ぎている。
下村は悔しそうな表情でしばらく黙っていたが、やがて「わかりました」と低い声で頷いた。
これは、承知したという風ではないな。
一朗太はそう受け取ったが、あえて何も言わずに頷きを返した。
「残りの四人はどうだ。おそらくだが、まだ捕まっていない者たちだと思う」
懐から、例の紙を取り出して床に置く。
簀巻き男の名前は三番目にあったものだ。
残りは戸田一徹、石崎与助、安西源左衛門、守屋治三郎。特に最後のふたりは、朝比奈家の重臣なのだそうだ。
かさね屋は、聞いたところによると店をたたみ、逃亡したのだとか。
口入屋を見つけ出すのは苦労しそうだが、他の四人、少なくとも朝比奈家重臣のふたりについてはすぐに探せるだろう。
いずれ復讐するにしても、いきなり朝比奈の重臣を狙うわけにはいかない。だが、残りの二人はどうだろう。少なくとも所在は把握しておきたい。
「……まだ捕まっていない者たちとは?」
「姉上と奈津とが救い出された後、事態を重く見た朝比奈殿が関係者をとらえ処分したようだ。その目をかいくぐった者たちなんだろう」
「そのことについて探りを入れようとしたのですが、誰も口にしたがらず……」
「かなり大きな騒ぎになったようだ」
多くをとらえたとしても、家中の者を逃したのでは片手落ちだ。
朝比奈殿は名将だときくが、噂だけか。一朗太なら、家臣こそ真っ先に処分するが。……いや、当時の状況はまだよくわかっていない。判断するのは早いか。
「曹洞宗のご住職が、なかなか良い人ようだった。聞けば話してくださりそうだ」
あの場で聞けばよかったのだが、奈津のことで頭がいっぱいで、あまり話せなかった。
姉上の墓に参る約束をしたこと。どうやら奈津が線香の臭いに恐怖したようだということ。順を追ってその話をすると、下村は難しい表情をしたまま何度か頷いた。
「街道沿いにあるのでしたら、姫様をお墓にお連れするのは出立の日でよいのでは」
「そうだな。遠くから詣でる形でも姉上は許して下さるだろう」
二人はしんみりと黙り込み、同時に目を逸らせて小さくため息をついた。
「……姉上は、本当にもうこの世にいらっしゃらないのだな」
しばらくして、一朗太はぼんやりと言った。
おしゃべりな奈津と違って、物静かな姉だった。幼少期から今川館に居たので、ともに育ったという記憶は少ないが、懇々と言い聞かせる叱り方をする人だったのは覚えている。
芯の強い、武術にも心得のある姉だった。家族思いの、優しい姉だった。
市村の方がわずかに震え、一朗太の頬にも涙が伝った。
一朗太はこの時になってようやく、姉志乃の死を現実のものだと受け入れた。
 





 
  
 