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冬嵐記  作者: 槐
外伝 一朗太記

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288/308

遠江 朝比奈領 宿屋3

 宿に戻り、濯ぎで足を洗って部屋に戻ると、神妙な顔の下村に迎えられた。

「申し訳ございませぬ」

 床に頭を押し付けて謝罪する伯父に、軽く首を横に振る。

 同じ状況になったら、一朗太も同じようにあの男に殴りかかっていただろう。

 いや、帯刀していてよく抜かずにいられたな。

「……発作のように震えていた。線香の臭いが怖いようだ」

 誰がといわずとも、奈津の様子だと察しただろう。

 下げたままの下村の顎に力がこもり、首にぎゅっと筋が立った。

「岡部郷で静養させようと思う」

「はい。それがよろしいかと存じます。少なくとも、駿府にお連れするのは反対です」

 もともとは、奈津のことも連れて駿府に向かう予定だった。これ以上人数を裂くわけにはいかないからだ。

 岡部郷は掛川から駿府にむかう東海道の街道の途中にあり、岡部家が起こった地だ。既にその領地の多くは他家のものだが、村がひとつあって、そこには祖母が住んでいる。

 岡部家の家臣の、働けなくなった者たちもいるので、せめて駿府での用が済むまではかくまってもらえるだろう。

 問題はただひとつ。

「あの男が、奈津を狙ったという可能性は?」

「はい。大いにありえます」

 簀巻きにした男の行く末を、下村は聞いてこなかった。

 一朗太が許すはずがないという信頼からか、鶸らに預けたと横田にでも聞いたか。

 実際、まだ生きているとは思うが、そう長くないだろう。鶸が男に向ける目つきを思い出して身震いする。

「刺客は岡部郷まで来ると思うか?」

「岡部郷のご老人方に任せても良いかと。少なくとも駿府よりは安全です」

「……そうだな」

 一瞬、狙われている奈津がいれば、刺客の元を辿ることが出来ると頭を過ったが、もちろんそんな危険は冒せない。

 奈津がおらずとも、いるふりをしておびき寄せればいいのだ。

「駿府の屋敷を売り、人を増やしたい。奈津を守り、今川館に探りを入れる助けになる者が良い」

「それは」

 一朗太の脳裏に、万事の顔が過った。

 胡散臭い男だ。奈津が頼りにしているから見逃しているが、全幅の信頼は置けない。……いや。

 岡部家は多くの家臣を失くした。これから先、元の人数まで増やしたとしても、無条件の信頼は付いてこない。

 万事でも、そのほかの誰かでも同じだ。その者が間者ではないとは言い切れないのだ。

「屋敷を売ってどうされるのですか?」

「仕官する。武官ではなく、文官に回されるかもしれぬ」

 一朗太がもう少し幼ければ奥勤めもできたかもしれないが、弟のように奥付きの小姓になるには年が行き過ぎている。

 下村は悔しそうな表情でしばらく黙っていたが、やがて「わかりました」と低い声で頷いた。

 これは、承知したという風ではないな。

 一朗太はそう受け取ったが、あえて何も言わずに頷きを返した。


「残りの四人はどうだ。おそらくだが、まだ捕まっていない者たちだと思う」

 懐から、例の紙を取り出して床に置く。

 簀巻き男の名前は三番目にあったものだ。

 残りは戸田一徹、石崎与助、安西源左衛門、守屋治三郎。特に最後のふたりは、朝比奈家の重臣なのだそうだ。

 かさね屋は、聞いたところによると店をたたみ、逃亡したのだとか。

 口入屋を見つけ出すのは苦労しそうだが、他の四人、少なくとも朝比奈家重臣のふたりについてはすぐに探せるだろう。

 いずれ復讐するにしても、いきなり朝比奈の重臣を狙うわけにはいかない。だが、残りの二人はどうだろう。少なくとも所在は把握しておきたい。

「……まだ捕まっていない者たちとは?」

「姉上と奈津とが救い出された後、事態を重く見た朝比奈殿が関係者をとらえ処分したようだ。その目をかいくぐった者たちなんだろう」

「そのことについて探りを入れようとしたのですが、誰も口にしたがらず……」

「かなり大きな騒ぎになったようだ」

 多くをとらえたとしても、家中の者を逃したのでは片手落ちだ。

 朝比奈殿は名将だときくが、噂だけか。一朗太なら、家臣こそ真っ先に処分するが。……いや、当時の状況はまだよくわかっていない。判断するのは早いか。

「曹洞宗のご住職が、なかなか良い人ようだった。聞けば話してくださりそうだ」

 あの場で聞けばよかったのだが、奈津のことで頭がいっぱいで、あまり話せなかった。

 姉上の墓に参る約束をしたこと。どうやら奈津が線香の臭いに恐怖したようだということ。順を追ってその話をすると、下村は難しい表情をしたまま何度か頷いた。

「街道沿いにあるのでしたら、姫様をお墓にお連れするのは出立の日でよいのでは」

「そうだな。遠くから詣でる形でも姉上は許して下さるだろう」

 二人はしんみりと黙り込み、同時に目を逸らせて小さくため息をついた。

「……姉上は、本当にもうこの世にいらっしゃらないのだな」

 しばらくして、一朗太はぼんやりと言った。

 おしゃべりな奈津と違って、物静かな姉だった。幼少期から今川館に居たので、ともに育ったという記憶は少ないが、懇々と言い聞かせる叱り方をする人だったのは覚えている。

 芯の強い、武術にも心得のある姉だった。家族思いの、優しい姉だった。

 市村の方がわずかに震え、一朗太の頬にも涙が伝った。

 一朗太はこの時になってようやく、姉志乃の死を現実のものだと受け入れた。

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