遠江 朝比奈領 寒月屋敷2-5
コミカライズします
月刊チャンピオンREDで連載が始まります
11月号(9月19日発売)からです
詳しいことはこれから活動報告に書きます
楽しみです!
太い読経の声が響く。
一朗太は最前列でそれを聞きながら、視線はずっと膝先を見据えていた。
奈津は居室に戻った。
あんなにも怯えていたのだ、連れてくることなどできはしない。
一朗太の胸は引きちぎられるような痛みを訴え続けた。死んでしまった姉と、今なお苦しんでいる妹とを守れなかった己を、今更ながらに強く悔やむ。
父はきっと守ろうとしたのだ。娘の為に裏切り者の汚名を負うことを躊躇わなかった。
なんとしても二人を取り戻そうとした父の行動を、恥だと言い切っていいのだろうか。
一朗太の心は千々に乱れ、もはや何をどう考えればよいのかもわからなかった。
読経が終わり、一朗太は住職と正対して丁寧に礼を言った。近いうちに姉の墓に参りに行くと告げると、亡き祖父ほどの年齢の住職が複雑そうな表情で頷く。
「……随分な顔色をしておられるな」
「申し訳ござらぬ」
「いやいや、妹姫のことは聞いておりますよ。前もって教えて下されたら、その日は朝から線香を焚くのはやめておきましょう」
奈津が怯えたのは、線香の臭いのせいなのか。兄なのに、そんなことにも気づけなかった。
「若君」
歯を食いしばった一朗太を見て、眉に白いものが混じった住職は気づかわし気な顔をした。
「心の傷は目に見えないものです。ですが、身体に負った傷と同じなのです。今は傷口がふさがるのを待っている時ですよ。急がずゆっくり見守って差し上げてください」
「はい。ありがとうございます」
もう一度丁寧に頭を下げ、住職の言葉を胸の内で反芻する。
奈津は無事だと、ただ表面的なことしか考えていなかった。今は少し様子がおかしいが、すぐにももとの口達者な妹に戻ると信じて疑わなかった。
だがしかし、姉上の命を絶った刃は、幼い奈津の心をも切り裂いたのだ。
一朗太の脳裏に、あの雪崩の日のことが深く刻みつけられているように、奈津の心からも姉上の死の瞬間がずっと消えないのだろう。
それはきっと、一朗太が想像している以上の苦痛を伴うことなのだ。
奈津の心からは、いまなお血が流れ続けている。
「……若」
ぼんやりと住職の後ろ姿を見送っていた一朗太に、横田が心配そうに声を掛けてくる。
「大丈夫ですか」
一朗太は小さく息を吐いてから頷いた。
もちろん大丈夫だ。こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
しかしその虚勢は、はた目にも明らかだったようだ。
一朗太の顔を見るなり、小四郎殿は盛大に顔をしかめた。
「ひどい顔色だ」
住職と同じことを言われて、ごまかすように唇を笑みの形にしてみるが、かえって渋い顔をされた。
「今日はもう宿に戻ったほうがいい。途中に飯屋にでも寄って、腹いっぱい食って、すぐに床に入れ」
食って寝たら何とかなると言う小四郎殿に、ふりではない本気の笑みがこぼれる。
心は痛くても、人は笑えると初めて知った。
だが同時に思い知る。笑うこともできない奈津の心は、手足を失った父のように、二度と元に戻ることはないのかもしれない……と。
小四郎殿と少し話をしてから、一度宿に戻ることにした。
言われたとおりに横になるつもりはないが、一人になって考えたい。下村は既に宿に戻って謹慎しているから、奈津のことを相談もしたかった。
俯きながら、壊れた門のほうへと向かう。
修繕の為の材料が届いたようで、威勢のいい男たちの声がそこかしこから聞こえる。
一朗太は邪魔にならないように少し距離をとった。
その時、お勝手口のほうから歩いてきた商人とすれ違った。
痩せて小柄な男だ。手と足にまだ旅装が残っていて、お屋敷に着いたばかりなのだとわかる。
丁寧な会釈に軽く頷きを返して少しして、一朗太は足を止めた。
振り返ったその顔を、横田が不思議そうに見てくる。
「若?」
その商人は門のところで大工の棟梁らしき男と話をしている。
知らない男だ。会ったことはない。
いやもしかすると町ですれ違うぐらいはしたかもしれないが、少なくとも、個として認識した記憶はない。
「……あの男は?」
「えっ、どの男ですか?」
一朗太が察知したささいな違和感を、横田はまったく感じなかったようだ。指さした先の男に目を凝らし、首をひねっている。
「京の商人ですかね」
しばらくして、横田が言った。なるほど、遠くから聞こえる声は京訛りだ。
京訛りといえば、あまりいい記憶がない。
飯屋で勝千代殿の悪い噂をばらまいていた連中、なんといったか……そうだ、日向屋だ。
「荷が毎日届いているようですから、一緒に来たんじゃないですかね」
地方とはいえ、公家の屋敷にはそれなりの格式を必要とする。それが摂家の方ならなおのこと。 調度品や、修繕する門の細工物などに京のものを取り寄せるのはわかる。
「あの男が何か?」
「いや」
横田が警戒しないのなら、気のせいか。
一朗太は軽く首をふってから、その場から離れた。
ちらちらと雪が舞い降りてくる。
吹き付ける風は冷たく、肌に痛みを感じるほどで、行き来する多くが身をすくめて足早に歩いている。
お屋敷から宿まで、徒歩で四半刻ほど。遠くはないが、別々の町なので、町と町とあいだには民家もない場所がある。
いつもはもっと同行する者がいるのだが、今日は三人だった。少ないとは思えない。岡部家の嫡男を狙うなど、よほどのもの好きぐらいだろう。
だが、下ばかりを向いて歩いていた一朗太の前に、横田が立ちふさがった。他の二人も、左右にぴたりと寄ってくる。
一朗太も身構えて、家臣らが見ている方向に目を凝らす。
二つの町が近いので、一般の町人も日常的に行き来する道なのだ。日も高いこの刻限に、野盗などが湧くとは思えないが。
しばらくして、一朗太の耳にも複数の男たちの笑い声が聞こえてきた。酒でも入っているのか、良い調子だ。
凸凹とした道の曲がった先から、その男たちが見えてきたとき、さすがに顔をしかめてしまった。例の、飯屋で騒いでいた京商人たちで間違いない。
「……すごいですね! 轟介さん」
「さすがです!」
轟介とやらと、その太鼓持ちの手下たち。いや商人なので、手代? 小者?
十人近くが道を塞ぐように広がって歩く様子は、商人というよりも破落戸で、気が弱い者なら避けて通るだろう。
お互いの存在がわかる距離で向き合い、自然と足が止まる。
こちらは一朗太を入れたとしても四人。とはいえ全員が大小の刀を差した武士だ。
さすがに道をあけるだろうと予想していたのに、あろうことか、鼻で笑われた。
カッとした家臣のひとりを、横田が止める。その目が「どうする」とばかりに一朗太を見る。
一朗太はひとつ息を吐き、足を踏み出した。
横田らは何も言わずについてくる。
ずんずんと歩を詰めると、下っ端たちは流石に気まずそうに目を見交わして左右に別れた。
腕組みをした若い男が、道は譲らないと言いたげにふんぞり返っていたが、一朗太がいっこうに足を緩めないので渋い顔になる。
えらそうにしているが、一朗太が知る最も恐ろしい武人とは比べるまでもない。あの巨躯と咆哮似た怒声を聞けば、この程度の男は一目散に逃げ出すだろう。
所詮はその程度だ。恐れるに足りない。
一朗太は足を止めずに歩き続けて、すぐに宿に着いた。
轟介は堺の、武士より商人のほうが力を持つ地域の認識でいます
 





 
  
 