遠江 朝比奈領 寒月屋敷2-4
姉上が弔われているのは、ここから掛川城の近くにある曹洞宗の寺だ。
街道の途中にあるので、駿府に向かう途中に立ち寄る予定でいた。
これまで参りに行かなかったのは、奈津も一緒に連れて行ってやりたいという気持ちと、単純に任された仕事が多忙だったということもある。
奈津には毎日会いに行くが、毎日怯えられていて、実の兄として落ち込むと同時に、ここまでこの子を苦しめた出来事に改めて怒りが募った。
御前様との初めてお会いできた翌日、気を使ってくださったのか、その寺の住職がわざわざ屋敷に来てくれた。
姉上の為に読経してくださると言うので、奈津を呼びに急に部屋に向かった。
先触れもなく、急だったのが悪かったのだ。
一朗太が現れたことに驚いて、けたたましい悲鳴が上がった。
何故、どうしてと強い衝撃を受けて、立ち尽くした。
「……奈津、すまない。奈津」
動揺して馬鹿のように繰り返すしかなく、妹のことは女中たちに任せていったん距離を置こうと後ずさったそのとき。
無言で大柄な男が部屋に入ってきた。
何をしている! そう大声を上げなかったのは、奈津の悲鳴が途切れたからだ。
一朗太の目に映ったのは、痩せ程った妹の腕が助けを求めてその男に伸ばされ、男が掬い上げるようにそれに応えた情景だった。
それは、奈津に怯えられた時以上の衝撃だった。
「万事という名だそうです」
横田の報告に、おもわずその角ばった顔をじっと見据えてしまった。
福島家の家臣でも御前様の関係者でもないそうだ。身分的には浪人で、身分もなにも持たない男。だったらどうしてこの屋敷に自由に出入りできるのだろう。
聞くところによると、岡部家の護衛が見ている前でも、何度も奈津を宥めて落ち着かせていたそうだ。密室というわけでもなく、護衛の前に限定されるので、わざわざ一朗太に伝えなかったと言うが……。
それこそ真っ先に伝えていてしかるべきだろう!
奈津に信頼されている男への対抗意識がなかったとは言えない。
だが、未婚でまだ幼い妹の周囲に、素性も定かではない男がいるのは良いことではない。
「ワシらもどうかと思っていたんですが。若や下村様まで受け付けない姫君が、あの男にだけは心を許しているようで」
……わざとだな。わざと伝えなかったな。
じっと睨むが、横田はひょいと肩を竦めただけだ。
「ですがね、いつまでもこちらでお世話になっているわけにはいかないじゃないですか。お屋敷を出て別の場所に移るとなった時に、女中さんたちを連れて行くわけにはいきませんし」
「慣れる。実の兄だぞ」
「……まあ、そうならいいんですが」
一朗太は強く舌打ちした。確かに幾日経っても奈津は怯えた様子のままだが、かつてはあれだけ懐いてくれていたのだ、ずぐにもとの関係に戻れるはずだ。
しばらくして、奈津の部屋から万事が出てきた。
怒鳴りつけてやろうとしてやめたのは、その背後に奈津が立っていたからだ。
「奈津」
思わずそう声を掛けるが、やはりビクリと怯えられて、大柄な万事の背中に隠れるように引っ込んだ。よく見れば、かつて自分にしていたように、万事の袖をぎゅっと握っている。
一朗太はどう声を掛けたらいいかわからずに黙り、無表情に立っている男に視線を向けた。
第一印象よりは若そうだが、一朗太よりもかなり年上で、無精ひげが頑丈そうな顎まわりを覆っている。
総髪で、髷を結うほどの長さもないようで、後頭部の低い位置で結わえられただけだ。
身なりは悪くないが、着こなしが崩れていて、このお屋敷にはふさわしくない。
見れば見るほど、気に食わない男だった。
「……岡部一朗太だ。妹が世話になっている」
万事は少し迷う風に視線を向けてきて、次いで奈津を気にするそぶりで視線を背後に落とした。
「冷えるから、もっと羽織ってきた方がいい」
感情を伺わせない掠れた声に、一朗太はドキリとしたのに、奈津は細かく首を左右に振りながら、むしろ縋りつくように寄り添っている。
そもそも、初対面の挨拶をした返答がこれか。礼儀がなっていない男だ。
だが確かに、吹き付ける風は切りつけるように冷たく、ずっと立っていると凍り付きそうだ。
見るからに痩せている奈津は、それだけ体力もないだろうから、もっと厚着をしてくるべきだというのは間違っていない。
ますます腹が立ってきたが、奈津の前でそれを露にするわけにもいかず、軽く咳ばらいをして、女中に世話を焼かれている妹を見守った。
「奈津。姉上の為に住職が経を読んで下さるそうだ」
「……はい」
細い、本当に小さく細い声だが返答があった。
それは一年ぶりに聞く、悲鳴以外の声だった。
鼻の奥がツンと痛んで、一朗太はぐっと唇を引き締める。いや怯えさせてはいけない。かろうじて口角をあげ、涙は堪えた。
「いいですか、若。辛抱です」
苛々していた一朗太をさらに苛立たせるのが横田だ。他の奴らは万事の事をすでに知っていたようで、「とうとうバレたか」という風な顔をしている。
「姫様を怖がらせるような真似をしてはいけません」
「……わかっている!」
一朗太が気に食わないと感じるのがわかっていたのだろう。下村も知っていたのか? ……知っていたならがっかりだ。
気持ちを落ち着けようにも、奈津は万事に抱き上げられていて、まるで本物の親子か兄弟のように見える。
奈津は岡部の姫だぞ! そう言いたいのをぐっとこらえ、そんなことよりもと、廊下の少しの距離も歩けない体力のなさに気をむける。
この調子で駿府まで行けるとは思えない。やはり道中の岡部郷で立ち寄って、祖母のもとに預けていくべきだろう。
ほのかに線香の臭いが漂ってきた。もうすぐ住職が待つ部屋だ。
一朗太は、二人を引きはがすことばかり考えていて、奈津の変化を見逃した。
「……若」
横田に言われて初めて、万事の首にしがみついている奈津が、ぶるぶると震えていることに気づく。
万事が足を止めた。奈津の耳元で、何かを囁いている。
流石に、この男が奈津を怖がらせたとは思えなかった。
何に怯えている? 何が怖い?
一朗太は改めて、妹の身に起こった出来事を漠然としか知らないことに気づいた。




