遠江 朝比奈領 寒月屋敷2-3
一朗太は庭先に両膝をついて控えていた。部屋に上がるようにとすすめられていたのだが、とんでもないと辞退した。
姉と妹が世話になっているだけでもありがたいのに、それ以上は一介の武士には過ぎる。
それほどしないうちに、静かな衣擦れの音がした。耳をすませば聞こえる程度の、廊下の床板を踏み締める音がして、一朗太はますます深く頭を下げた。
視線は膝先の石に据えられたまま、もちろん声を掛けられるまでは動かない。
「……奈津の兄か」
頭上から降ってきた声は、想像していたよりも低く、太かった。
公家と聞いて想像するのが、雅な貴人、荒事とは縁遠い高貴な御方、というものだったので、さながら武士のようなどっしりとした声に、とっさにそこにいるのが本当に御前様なのかと訝った。
「は、はい」
それでも、返答しないという選択はない。
きっとお付きの侍従か護衛だろうと思いながらも、変わらず視線は膝先に据えたまま答える。
「話は聞いた。よう捕まえたな」
しっかり京訛りなのに、武士と同じ匂いがする口調。もしかすると、京のほうの武士かもしれない。頭の中でそんなことを忙しく考えながら、身体を折り曲げて頭を地面に近づける。
両手を置いているのは足の付け根のところなので、かなり苦しい体勢だ。
「お初にお目にかかります。岡部一朗太と申します。このたびは我が姉志乃、妹奈津への多大なるご温情を賜り……」
「そんなところにおらんと上がれ。お勝も奈津も、遠慮などせぬぞ」
考えてきた口上をつらつら述べようとしたのを遮られ、言葉が止まった。はっと顔を上げてしまい、その御方の膝から下を目にして慌てて顔を伏せる。
どうしよう。このお方はきっと御前様ご本人だ。お召しになられている装束からもそうとわかる。地味色だが、生地の良さが一目瞭然なのだ。
「志乃にどことなしか似とるの」
狼狽したところに姉の名を出されて、抑えていた感情が込み上げてきそうになった。
「……はい。よく言われます」
正しくは「言われました」だ。
そんな細かなとこから、姉がもうこの世にはいないのだと突き付けられ、ずきりと胸が痛む。
「ご温情に心から感謝しております。東雲様には見舞いの文を出させていただきましたが、御容態は如何なのでしょうか」
涙声をごまかそうとして、若干早口になってしまった。
慌ててひとつ、咳ばらいを挟む。
「言葉や文だけではなく、いずれきちんと形にしてお礼をさせて頂きたいです」
「子供がそんなことを考えずともええ」
そういうわけにはいかない。特に若君が身を挺してくださった事への礼は、岡部家のすべての財をなげうっても足りるとは思えない。実際に公家の若君は重傷を負っているのだ。
「そのへんはな……今川が多めに払いよるやろう。お勝も相当気を使ってくれとるしな」
お勝。勝千代殿のことだ。数回文を交わしたが、そこには詳しいことは書かれていなかった。
「申し上げます。この件について、福島家が調べた結果をご存知だとお伺いしました。差しさわりのない部分だけで構いませんので、教えて頂けないでしょうか」
「姉妹がさらわれた経緯はわからぬ。だが駿府から遠江までの足取りと、それにかかわった者たちをごっそりと暴きよったわ」
それはまさに、一朗太が知りたかったことだ。勝千代殿はどうして教えてくれなかったのだろう。……とても書けない内容だったのかもしれない。
心が壊れてしまった奈津の様子を思い出し、我慢できずに涙がにじんだ。
想像するだけで、直接切りつけられたかのような痛みを覚える。
「その、者たちの……」
ごまかしようもなく嗚咽がこぼれ、ポタリと涙が膝に落ちた。
「あらかた捕え、すでに処分された者も多い。だが中には逃れたのもおってな。それが今回捕まえた男や。じっくり頭の中身を絞られ、苦痛の中で逝くやろう。だがな」
御前様は気づかぬふりでそうおっしゃって、更に数歩近づいてきた。
視界に入る廊下の縁に、白足袋を履いた足先が見えた。
「実際のところはまだ大勢おると見ている。朝比奈の家中と、今川館やそほかにもな」
福島家がこの件について調べていたのは、一朗太が頼んだからでもあるが、この一件が福島家とも無関係ではないからだそうだ。
「福島の父子を狙った一味とつながっておった」
ひくりと喉が鳴った。今度は嗚咽ではなくうめき声を飲み込む音だった。
それはまさに、父上のことではないか。
姉妹を人質に取られていたとはいえ、お勝殿と福島殿を殺そうとしたことには違いない。
……ああ、そうか。福島親子を狙ったものが、岡部家に災禍をもたらした根源なのか。つまりは父もまたその一味だということだ。
「一朗太」
「はっ、はい」
「事実から目を背けても何にもならぬ」
厳しい言葉だ。一朗太はゴクリと喉を鳴らした。こぼれていた涙も引っ込んだ。
御前様はきっと何もかもご存知なのだ。
「親の業は子が背負うもんや。どうしようもない」
「……はい」
責められているようには感じなかった。突き放されているとも。
だが、もはやこの恥を削ぐべく、死んで詫びたほうがいい気がしてきた。
「幸いにもお勝は、そのほうらを敵とは思うておらぬ。志乃や奈津をえろう気にかけておったよ。あれの素性は知っておるな?」
最後に付け加えられたひと言にはっとした。
もちろん勝千代殿が御屋形様の御子だということは知っている。他家に養子に出された、中央からは離れた御子だ。
だがそれを御前様があえて言及したことに、意味を感じた。
「それではつまり……今川館の奥が関わっていると?」
後半の言葉はかすれ、自分でも聞き取りにくいほど小さかった。
「まだわからぬ。故にあれの忍びらは辛抱強く探っておるよ」
姉上や奈津は今川館の奥に出仕していた。弟もだ。警備も厳重で、命の危険とは遠い場所のはずだった。
だが、そこにいた三人のうちの二人が死んだ。奈津もある意味、死の縁を覗いたと言ってもいい。
何故、最も警備が厳重な場所にいた三人ともが災禍に見舞われたのか。
そこに原因があるとうっすら疑っていても、直視できなかった己に歯噛みする。
一朗太はこれまで、その手の事情には疎かった。だが無知は罪だ。知らないがゆえに、敵を敵と認識できないようでは何も守れない。
考えなくてはならないのは、弟の死からだ。最初は奈津も死んだと伝えられた。その齟齬はどこからきた? 父は、どの段階で命令から背けなくなった? ……誰からの命令を?
まだ何もわかっていないに等しいが、それでも、岡部家の敵が駿府に、今川館の奥にいると気づけたのは大きい。
「ありがとうございます。このご恩は生涯忘れませぬ」
一朗太の声には力がみなぎっていた。
根底にあるのは怒りだ。もはや何もかもをなげうって、敵を討とうと心に決めた。
これは生涯の誓いだ。何年、何十年かかろうとも果たしてみせる。
相手が例え……主家の誰かであろうとも。




