遠江 朝比奈領 寒月屋敷2-1
そのあと朝まで眠れなかった。
全員を叩き起こす必要はないと横田はいうので、複数の鼾が響く中、一朗太はまんじりともせず暗い天井を見上げ続けた。
そして翌朝。例の紙を囲って、下村と横田と額を突き合わせている。
昨晩の段階で確認はしたので、何が書かれているのかはわかっているが、改めて見ても判断に困る内容だった。
幾人かの人名と、店号と思われる名前。なんだこれは?
「……かさね屋? 知っているか? ここ数日町を歩いたが、見た覚えがない」
「わかりません」
一朗太の問いに、横田も下村も首を傾げる。
「ですがこの方、朝比奈家のご家臣です。昨日から御前様のお屋敷に出入りしております」
ますますわからなくなって、三人ともに表情が渋くなる。
「おそらく今日もいらっしゃるでしょうから、聞いてみましょうか。紙をお借りしても?」
「待て」
下村の言葉を遮って、一朗太は首を傾げた。
何故こんな紙を渡されたのかを考えると、安易に見せてもいいものかわからなくなったのだ。
「これらの名には、何か意味があるはずだ」
「ですが心当たりはありません」
下村曰く、その朝比奈家のご家臣とも初対面で、あいさつ程度しか会話もしなかったそうだ。
ますますわからない。
わからないものを考えても仕方がないと、とりあえず今日の成すべきことをするために身支度をして宿を出た。
小四郎殿にも昨夜のことを話すと、そばで聞いていた天野家のご家臣たちのほうが強く反応した。何かを知っていたわけではなく、不審者が宿の庭まで迫っていたことに警戒したようだ。
お屋敷の手前で、警備の武士たちに挨拶しながら歩いていると、下村に付いて先に宿を出た横田が、転がるようにして壊れた門から出てきた。
「わ、若!」
その焦りっぷりに、何かよくない事でも起こったのか足を止め、身構える。
横田は一朗太の腕を掴んで、壁際まで寄った。
そして耳元で囁かれた言葉。
「かさね屋というのは、しばらく前まで町にあった口入屋の屋号だそうです」
すうっと血の気が引いた。
口入屋。人手や奉公先を仲介するのが仕事だが、それだけではない。
人買いは、堂々と看板を下げて人を売り買いする。そのほとんどが、表立っては口入屋を名乗ることが多いのだ。
では、かさね屋というのは、姉と妹とを商品として扱った輩か。
「若、若」
ぐっと腕を掴まれ、揺さぶられた。
はっと我に返った時には、口の中に血の味がした。
「下村様が今、あの紙に名が書かれていた方と話をしています」
はじかれたように駆けだした。後ろから呼び止められたが、止まらなかった。
下村の身に何か起こるのではと、頭で考えるより先に身体が動いたのだ。
大勢が何事かと振り返る中、脇目も振らずに屋敷に駆け込む。
敷地内に入った瞬間、少し離れた場所で騒ぎが起こっているのがわかった。迷うことなくそちらに向かって走ると、怒声と悲鳴が入り混じった声が聞こえてきた。
お勝手口横の、武家の出入りが許された建屋の近く。お屋敷の厨のほうからだ。
角を曲がったところで人垣を見つけ、かき分けて前に出た。
そこで目にした光景に、一朗太は思考停止で立ち尽くした。
羽交い絞めにされた下村が、髪を振り乱して怒号を発している。それは意味の分からない獣のような叫び声で、普段の穏やかな男を知っているだけに恐怖すら感じた。
「何が」と呟く自身の声が妙に遠くに聞こえた。ドッドッと心臓が激しく胸を打ち、喉がカラカラに乾く。
「お、おのれ! 気でも狂うたかっ」
下村に殴られたのだろう男が、ダラダラと鼻血を流しながら叫んだ。口元からも出血していて、みれば歯が一本折れたようだ。
「控えよ下郎! 今すぐここで手討ちにしてくれるわっ」
鼻からも口からも血があふれているので、ごぼごぼと溺れそうな声で男が叫ぶ。
下村が刀を抜かずに、こぶしを振り上げたのは、ここが恩ある御前様のお屋敷だという認識があったからだろう。
だがしかし、顔面血まみれの男は頭にまで血が上りすぎたようで、構わずすでに抜刀している。
「お待ちください!」
一朗太は声を張り上げた。
下村が切られる。死ぬ。そう思った瞬間、スッと現実に立ち返ったのだ。
「なんだ小僧」
「ここをどこだとお思いですか。刀をお納めください」
助け起こされた血まみれ男が、一朗太を憎々しげに睨む。その血走った目が殺気を帯び、刀の切っ先がこちらに向いた。
「理由も言わず殴りかかってくる気狂いがおるのだぞ!」
「理由?」
無関係を貫け、という下村の視線を無視して、一朗太は素早く男に近づいた。
縦にも横にも大きな男だった。年は四十半ば。身体の分厚さなど一朗太の倍ほどもありそうだ。
近づくと、両方の鼻の穴から今なお出血しているのがわかった。
一朗太はすっとその顔に口を近づけ、思わず身を引いた男の耳元で囁いた。
「かさね屋」
びくり、と分厚い肩が揺れた。
それが答えだった。
それまで罵声を垂れ流していた男が、何かに怯えた目つきでこちらを見る。
「刀をお納めください」
一朗太は繰り返し、ニコリと作った笑みを投げかけた。
どうやって殺してやろうかと、怒りを飲み込みながら。




