遠江 朝比奈領 飯屋2
江坂殿が掛川城に向かうそうで、しばらくの間、お屋敷に集まってきている武士たちの扱いを任された。
正直、そんなことを言われても困る。一朗太はまだ若輩で、実務経験も簡単なものしかなく、今川館に出仕した経験すらないので、集まってきた面々の事を何も知らない。
大きな失敗を待たれているのだろうか。そんなうがったことを考えた一朗太に代わって、快諾したのは下村だった。
「お任せください」
安請け合いをしても大丈夫なのかと振り返ったが、見えたのは深々と下げられた頭だった。
「必ずやご期待に添います」
集まってきている武士たちの、扱いにくそうな様子を知っているはずなのに。
江坂殿はそんな下村を見下ろして、重々しく頷いた。
「御前様にご迷惑にならないよう、重々気を付けよ」
「もちろんでございます」
江坂殿の眉間のしわは深く、不機嫌さと刺々しさをこれでもかと発散していたが、やはり声だけは平淡だった。
一度だけこちらを見たその視線は鋭い。一朗太がびくりと身じろいだせいか、ますます眉間のしわが深くなった気がする。
だがそれ以上は何かを言われることなく、踵を返して行ってしまった。
「……できるのか」
しばらくしてそう問うと、下村はゆっくりと頭を上げて溜息をついた。
「なんとかなるでしょう。いや、せねばなりませぬ」
下村は家老職をつくまで今川館にいて、文官をしていたから、できると踏んだのだろう。
だが、集まってきているのは大きなくくりのうちでは味方だが、家門はバラバラなので、まとめるのは楽ではないはずだ。
だが、そんなことは言っていられない。
「そうだな」
やるしかない。
まず取り掛かったのは、どんどん増え続けている兵らの宿泊場所の確保だ。
一朗太らの宿屋がようやく見つかったことからもわかる通り、今この近辺で旅籠も宿屋もほぼ満室なのだ。
代わりに近場の大きめの建物に片っ端から声を掛け、ひと月ほどという約束で借り上げることにした。
それらは天野家の方々にも手伝ってもらって、奈津の護衛役を除く総勢で走り回らなければならなかった。
公家が関わる大事とあって、武士たちの多くはおとなしくしてくれているが、一日二日ならともかく長くなりそうなので、どこかでもめ事が発生するのは確実だ。
そうなる前に、関係性が微妙な家門は宿泊場所を離すなどの配慮がいる。
片方を立てればもう片方が立たず、つまり両方を立てないのが最適解だと理解するまでに数日。
もちろん一朗太側は下手に出て、頭を下げるのが必須だが、相手を怒らせないよううまく言葉で制御しなければならない。簡単な仕事ではない。
意外なことに、そういった折衝事が一番うまいのは小四郎殿だった。まだあどけなさの残る少年だというのが良かったのかもしれない。
一朗太は可もなく不可もなく。たいていの仕事はこなすが、人の感情や思惑を勘繰るのは、なかなかうまくいかない。
「……疲れた」
日暮れの飯屋で、机に頬をつきながら呟く。
そんな一朗太の前で、豪快に切麦を食べているのは、疲労など全くうかがわせない小四郎殿だ。
こちらはまだ箸をつけてもいないのに、あっという間に椀を空っぽにして、早くも次の注文をしている。
一朗太はため息をつきながら、ようやく身体を起こした。
黒光りするほどに磨かれた板間に胡坐を組みなおし、切麦を口に運ぶ。
一朗太がまだ半分も食べていないのに、すでに小四郎殿は三杯目を飲み干し、満足そうに腹を擦っていた。
「小間物屋の裏の建屋だが、聞いたところによると桶屋の持ち物だそうだ。長く使われていないが、手を入れたら十人は泊まれるようにできるそうだ」
「それは助かる」
建物の修繕ができる大工を呼べるかが問題はあるが、今でもぎゅうぎゅう詰めなので、悪くはない知らせだ。
少し前に火事があったそうで、人が住んでいない空き家の多くが消火が間に合わずなかった。お陰で、使える建物が少ないのだ。
「それから……」
小四郎殿の話の続きを聞こうとして、ふとその背後が気になった。
どっと大きな笑い声が起こり、酒が入っているのだろう、陽気な大声が響いてくる。
「……やて」
威勢のいい大声が、京訛りで何かを言っている。
その一団以外は不愉快そうにしているから、あまりいい話題ではなさそうだ。
「くしまの殿さまの……」
関わり合いになるべきではないと判断して、いくらか冷めた切麦を箸でつまんだところで、酒に焼けた声が、そこだけ妙にはっきりと一朗太の耳に届いた。
くしま。ふくしまではなく、くしま。
「鬼福島の種じゃねぇって話や」
大声でそんな話をして、大声で笑う。
一朗太は箸先の葱を凝視した。聞くべきではない、聞くべきではないと思っていても、耳がそちらに引き寄せられる。
「それがとんでもねぇ我儘もんで、継母を追い払って居座って、出入りの商人もみんな首にしたそうや」
「すげぇな。京でも噂になるほどなら相当だな」
思わずパッと顔を上げた。
襖で仕切られた別の部屋なので、この不愉快な話をしているのが誰かはわからない。
だが大勢で笑いものにしているのは、一朗太にとっては返せぬ借りのある相手だ。
腰を浮かせた一朗太を止めたのは、隣に座っていた横田。岡部家の古くからの家臣のひとりだ。
止められた理由はわかっている。相手がはっきりしないうちに、もめ事を起こすわけにはいかない。
だがなおも続くあけすけな噂話に、長く我慢できる気もしなかった。
箸を置き、心を落ち着かせるために息を吸って吐く。
「横田」
人の動きは止めたくせに、切麦の三杯目をまだ食べていた横田は、目だけで一朗太を見た。
「あれが何者か調べろ。目に余る」
無理やりにも気持ちを落ち着けると、おそらくはわざとああやって噂をばらまいているのがわかる。……理由は?
褒められた手段だとは言えないが、戦略としては理解できなくもない。
だがそれはすなわち、福島家の、勝千代殿の敵だということだ。




