遠江 朝比奈領 寒月屋敷1-2 再会
「奈津!」
ようやく会うことができた妹は、すっかり面替わりしていた。
かつては快活でしっかり者だったのに、見る影もなくやつれ、怯え切って視線すら合わない。
真っ青な顔で女中の陰に隠れようとする姿に衝撃を受けた。
この子のことは赤ん坊の頃から知っている。転んで泣き出してしまった時に、背負って山城の階段を上ったこともあった。
「……奈津」
心の中は乱れていたが、これ以上怯えさせないように声量を落として呼び掛けた。
「駆けつけるのが遅うなって済まぬ」
女中の着物の袖を掴んだ奈津の手は震えている。
一話しかけたら百返ってくるほどおしゃべりだった子が、ひと言も返さない。
「これからは兄がおる。……恐ろしい思いをしたのだな」
女中の陰から、「ううっ」とくぐもった声が聞こえた。
急に距離を詰めるのは無理そうだと判断し、短い対面だけで退出した一朗太は、部屋を出た瞬間に笑みの形にしていた唇を強くかんだ。
ブチリと皮膚が破け、錆びた血の味が咥内に広がる。
勝千代殿からの、無事に保護したという知らせには、姉妹は人買いに売られたていたとあった。
姉上のほうは口にするのもはばかられる扱いをされたのだそうだ。幼少の奈津も、もう少しで誰かに買われるところだったとか。
書簡の内容を呼んだ時には、漠然としか想像していなたった状況が、否応もなく現実として突き付けられた。
勝千代殿の文面が、ひどく遠回しだったのも頷ける。
姉妹の心は切り裂かれ、姉上のほうなど命まで奪われたのだ。
尋常ではない怯えっぷりの奈津を思い出し、改めてその理不尽さに腹が煮たぎる。
廊下の途中で立ち止まってしまった一朗太に、注意をする者はいなかった。
下村も、案内してくれた中間も、それぞれに思うことがあるようで、同じように黙っている。
「……下村」
情けなくも、声が震えている。
「ワシは何故に、もっと早くここに来なかった」
来ていたら、姉上とも会えただろう。襲撃を受けた時に、身を挺することもできただろう。
一朗太の代わりにそうしてくれたのは、彼が会ったこともない公家の青年なのだそうだ。
もし側にいたら、もしかすると、もしかすると、姉上は死なずに済んだかもしれない。奈津もあんな風にならなかったかもしれない。
両手で顔を覆った。
泣き言を言っている場合ではない。兄として、岡部家を継ぐ者として、家族がこれ以上の苦しみを味わわないよう手を打たねばならない。
ようやく足を動かして、母屋を出る。
恐れ多くも奈津は、この屋敷の主に可愛がられ、気にかけて頂いている。離れではなく母屋に部屋をもらい、何かあったらすぐに駆け付けてもくれるそうだ。
一人ぐらい女衆を連れてくればよかった。あの様子だと、日常の生活にも支障が出ているだろう。奈津の乳兄妹や、幼いころからの馴染みの女中もいたのに、そんな事考えもしなかったのは失敗だ。
母屋を出てしばらく歩き、用意してもらった部屋に戻る途中で、何も言わずに黙っていた下村がくぐもった声で呻いた。
横目で見た男は、見た事もない赤黒い顔色をしていた。食いしばった奥歯がギリギリと音を立てている。身体の横で拳になった両手が、目で見てわかるほど震えている。
一朗太は、手を伸ばせば届くところにある伯父の腕をぐっと掴んだ。
下村は真っ赤に充血した目をグリンとこちらに向けて、何かを言おうと唇を震わせた。だが結局、こぼれるのはすりつぶすような唸り声だけだ。
一朗太はなだめるように頷きかけた。
「交代で三人、奈津に付けよう。これ以上あの子に傷をつけるわけにはいかない」
見たところ、一条様が護衛の兵を配してくれているようで、奈津の部屋の回りは厳重な警備が敷かれているが、やんごとなきお方に頼りっぱなしというわけにはいかない。
「はい」
下村は大きく息を吸い込んでから、抑えた声でそう返してきた。
「お怪我をされたお方にも礼を言わねばならぬ。お会いできるかわからぬが、無理なようなら礼状をしたためよう。見舞いの品を見繕ってくれ」
「はい」
一朗太は、自分にはあまり似ていない、端正な下村の顔をじっと見上げる。
随分と思い詰めているように見える。
「大丈夫か?」
下村はぎゅっと目を閉じてから、堪えた息を吐いた。
「……はい。申し訳ございませぬ」
普段から常識人で、堅実に岡部家を支えてくれている男が、傷ついた姪を見て動転している。
下村には子供がおらず、いずれ岡部家の子の誰かを養子にして家老職を継がせようという話もあった。奈津のことを、我が子同然に思ってくれているのだろう。
「これでもまだ、何が起こったか知るべきだと思うか?」
一朗太は、下村にしか聞こえない小声で囁いた。
姉が殺され、もしかすると弟の幸次郎の死もその件と関係しているのかもしれない。深く知れば、今度はもっと多くが口封じをされる可能性がある。最悪の場合、族滅ということも……。
知りたい気持ちはもちろんあるが、一朗太には家門と家族と付いてきてくれる家臣を守る義務があった。
中途半端なことはできない。調べるなら覚悟を決めて、それなりの準備をしなければならない。
「……まだ終わったとは限りません」
そんな下村の返答に、喉の奥が詰まった。その通りだと思ったからだ。
「わかった」
一朗太は静かにそう言って、一度ぎゅっと下村の腕を掴んでから手を離した。
敵が切り掛かってくるというのなら、防ぐために備えなければならない。相手をよく知っておく必要もある。
歩きながら、静かな覚悟を決めた。
残されたものをすべて手放すことになろうとも、家族と家臣だけは守らなければならない。




