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知っているか? 昔って尻を拭く紙がなかったんだぜ。
もしかしてそれが、この時代に来て一番の衝撃かもしれない。
命のやり取りはもちろん忌避するが、それと同じぐらいに合わないのが、おトイレ事情だ。
勝千代はまだ幼いので、まず勧められたのが樋箱という名前のオマル。しかも大勢の人がいる部屋の中で出せと。
やめてほしい。恥ずかしくて死ぬ。
ヨネと二人きりの時だって、ちゃんと厠に連れて行ってもらったぞ。
よく考えたらわかることだが、この時代はまだ紙が貴重品だ。
城にいる大勢の尻を拭くために、そんな高価なものが使えるはずもない。
ではどうするかというと、ちゅう木という長いアイス棒みたいなものできれいにする。俗にいう糞ベラだ。
柔らかい木質なので痛くはないのだが、一度できれいになるはずもなく、何本も使うとストックがなくなってしまうので、それも気を遣う。
しかも! 使用済みの糞ベラは捨ててはいけないのだ。用を足しながら、他人の大便がこびりついた糞ベラを眺めていなければならない……鬱だ。
厠から出たところには手水鉢があり、一応手を洗えるようにはなっている。しかしこの寒さからか、上の筧から水は落ちてきておらず、溜まっている水も淀んで見える。
あの水を柄杓ですくって手を洗えと? ……病気になる自信しかない。
腹を下して強制的オマル生活になるのは嫌なので、少し距離があるが、近くの井戸まで手を洗いに行くようにしている。
医学が発展していない戦国の世だ、感染症を避けることができるのなら、多少遠回りだろうと清潔を心がけたほうがいい。
雪崩が発生したとき、あんなに寒くて全身氷のようになってしまったのに、熱は出さずに済んだ。
それもみんな、手洗いに気を使っているからだと信じている。
しかし寒い。
特に日が落ちてくると、なお一層寒さが厳しくなってくる。
そんな中、わざわざ外に手を洗いに行くなど、変わった子供にしか見えないだろう。
しかし現代人の感覚でいうと、用を足した後なのに清潔な水で手を洗えないほうが耐えられない。
弥太郎と、土井庄助、南八兵衛という名の父の配下の者たちが、そんな勝千代にずっとついてきている。
土井は額に布を巻き、南は腕をつっている。
ふたりとも気楽にぶらぶらという雰囲気を出そうとしているが、しきりに視線が左右に動くので、周囲を警戒しているのが丸わかりである。
それに気づくたび、複雑な気持ちになる。
自身が暗殺されそうになったなど、どうにも非現実的なのだ。
岡部殿は行方不明になったが、父はまだかなり勝千代の周囲を警戒していて、この一件が片付いていないと考えているのがわかる。
氷のような冷たさに耐え、手を清め終える。
桶から手を出すと同時に、弥太郎がさっと布で水気を拭ってくれる。
ここで自分でするとか意地を張ってはいけない。幼い子供のかじかんだ手ではうまく拭けないのは経験済みだ。
下手に頑張ろうとして着物の袖がびちゃびちゃになり、しかも拭い残しがしもやけの元になりかけた。
たった数十分で人間の手があんなに真っ赤になるなんて知らなかった。
用が済んだので元来た道を引き返そうとした時、奥に続く廊下に男性がひとり、額を床に押し当てているのに気づいた。
南がすぐ身体を割り込ませ視界を遮ったので、本当に一瞬しか見えなかったが、記憶にある男なのはわかった。
岡部殿の奥方と一朗太少年の側に付き、親身に世話をしていた人だ。
服装からして武士階級で、それなりの身分の男なのだろうが、勝千代に直接話しかけてきたことはない。
この時代の身分制度ははっきりしていて、父の嫡子である勝千代はヒエラルキーのかなり上の方に位置する。
特に自身が偉いとも思っていないし、なんなら非力なお子様に過ぎないことを残念に感じているぐらいだから、ぴたりと床に額を押し当てられてかしこまれても困るだけだ。
南の背中を見ながらため息を堪え、馴染めない風習への違和感を飲み込む。
きっと勝千代に用があるのだろう。そうわかっているのに、すぐ話を聞けないのは面倒極まりない。
勝千代はもう一人の護衛、土井に目配せをした。
土井は心得たように南の前に出て、外廊下の奥の部屋より、というかなり遠い位置にいる男に近づく。
本当に面倒くさい。
吹き付ける風の冷たさに耐えながら、この場で突っ立って待っているのか?
それもおかしなものだと思いながら、かといって安全が確認されていないのに相手に近づくわけにいかず、手持ち無沙汰な時間が過ぎる。
実際は、好きに動けばいいのだと思う。寒さを我慢してまで待つ必要はない。
どうしても聞いてほしい重要な話なら、勝千代がどこに移動しようがついてくるはずだからだ。
あまりにも寒いので、縁側に上がってもいいだろうかと迷っていると、ほんの十五秒ほどで土井は戻ってきた。
「岡部一朗太様がお時間をいただきたいとのことです」
無事な建物は少ないので、勝千代と彼ら親子とは同じ部屋にずっといた。衝立ひとつを目隠しに、ため息ですら聞き取れるほどの距離の近さだった。
それをわざわざ改まって……という事は、奥方に聞かれたくない話をしたいのだろう。
もちろん了承する。
というより、「待っていた」と言ってもいい。
雪崩の夜にも思ったが、あの子はずっと何かを胸に抱えていた。言いたいことがあったのだと思う。
それはきっと父岡部殿のことで、母を慮って言うか言うまいか迷っているように見えた。
さて、どんな話だろう。
こちらが意図したとおりなら、奥方が望む方向性とは違う内容のはず。
あの心根のよさそうな少年が敵に回らないといいのだが……そう思っているのは、勝千代だけではないだろう。




