遠江 朝比奈領 飯屋1
あそこが飯屋だと指さし足を早めた小四郎殿の腕を掴んだ。
ぞわりと嫌な予感がしたからだ。
足元から這い上がってくる感覚。決して気持ちのいいものではないその気配を、一朗太は『危険』だととらえた。
振り返ってこちらを見た小四郎殿の背後に、護衛も兼ねている側付きたちが立ちふさがる。
行く手を遮るように並んだ連中は、微動だにせずこちらを見据えていて、双方しばらく睨み合った。
「田所殿!」
宿屋のほうから、下村が知らぬ名を呼んだ。
バタバタと駆け寄ってきて、非友好的に向き合っている男たちの間に割り込む。
「いや、申し訳ない。こちらが我が主、岡部一朗太様だ」
浅黒い肌の目つきの悪い男が無言で下村を見つめて、一呼吸後に一朗太のほうに視線を向けた。
何の感情も含まない目だった。いや、むしろ敵意が見え隠れする。それにその配下のものらしい男たちも、どいつもこいつもただ者ではなさそうだ。
身なりからは、浪人かどこかで禄をはんでいるのか微妙な感じで、どちらかというと無頼者のような雰囲気だった。
だが下村の知己ということは、敵ではないはずだ。主なしでもないだろう。
一朗太にはそれだけを読み取るのがやっとだったが、田所はもっと深く、一朗太の心の奥底まで覗き込むような強さで見据えてきた。
「お噂はかねがね」
やがて、ぼそりとこぼされた声色は低い。
「田所殿、そのことだが」
「某に何かを言う必要はない。殿のご判断に従うだけだ」
これでわかった。おそらく田所は福島家の関係者だ。一朗太が知らないところで、父が他にも恨みを買っているのなら話は別だが。
俯いてしまった一朗太に小さく鼻を鳴らし、田所は下村に顔を向けた。
「主城がとんでもないことになっているそうだが、こんなところで何を?」
「駿府に向かう。御屋形様にご報告があるのだ」
「……ほう?」
「岡部家は一朗太様が継がれる。その届けをせねばならん」
「死んだか」
まるで「ざまあみろ」とでも言いたげな口ぶりに、ぐうっ、と下村の喉が鳴った。岡部家の家臣たちも悔しそうな顔をしている。
家臣にそんな顔をさせるなど主君失格だ。だが同時に、言われて当然だとも思う。それだけのことをやってしまったのだ。
鼻の奥がツンと痛んだ。
「……死んではおらぬ」
一朗太はいくらかくぐもった声でそう言って、顔を上げた。
「だが、二度と戦場に立つことはないだろう。某が岡部家を継ぐ」
「それはそれは」
田所は慇懃にそう言って、唇を歪めた。
もはや隠す気もないのだろう強い敵意が、真正面から一朗太を射抜く。
「家名に恥じぬようお励みなされよ」
「もちろんだ」
田所はもう一度小さく鼻を鳴らして、配下の者たちを促した。道を開けられたので、一朗太は小四郎殿の腕を掴んだまま早足でその間を抜ける。
悔しそうに黙っている家臣たちの為にも、何も言わずについてくる小四郎殿の為にも、こちらを凝視している田所の視線から目を背けることはできなかった。
きっとこれからも、似たような思いをするのだろう。
逃れられない罪がどこまでも追いかけてくる。
それは、岡部家を背負う者の宿命だ。
「なんだあの無礼者は!」
育ちの良さがわかる食べ方で切麦を飲み込んでから、小四郎殿が憤懣をぶちまけた。
「何故に言い返さぬ!」
一朗太は箸を動かしながら、軽く首を振る。
「言われて当然だからだ」
小四郎殿ははっとしたように言葉を飲んだ。そして、ちらりと周囲を見回してから声を潜める。
「そういう態度はよくないぞ。何があったのかは知らぬが、胸を張っておらねば下の者に示しがつかぬ」
すでにもう、示すものなどありはしないのだ。
父が何をして、どういう結果になったか知ってもなお、岡部家に仕えてくれる者たちには感謝してもし足りない。
小四郎殿はしばらくじっとこちらを見てから、片手を上げて追加の切麦を注文した。
「もっと食え。腹が膨れれば気持ちも晴れる」
やがて運ばれてきた木椀には、白く太めの麺が湯気を立てていて、味噌の香りが鼻先をくすぐった。汁には葱と薄切り大根が浮かび、干し魚のほぐし身も添えられている。
すでに腹も胸もいっぱいだったが、一朗太は黙って箸をつけた。
小四郎殿の気遣いが有難く、涙が出そうだ。
きっとこの切麦の味は、生涯忘れることはないだろう。
「……うまい」
こぼれた声は震えていたが、小四郎殿は何も言わずに頷き、ドンと一朗太の背中を叩いた。
「江坂?」
宿に戻り、先ほどの男について聞いてみると、下村はぎゅっと渋い表情になった。
「はい。お目付衆の筆頭として、大変優秀なお方です。御屋形様の腹心として、評定にお出になられることもあるそうです。福島様のご実弟に当たられます」
そうか。福島殿のご実弟、勝千代殿の叔父君に当たられる方か。先ほどの田所は、その江坂殿の家臣だそうだ。
シクシクと胃のあたりが軋んだ。
岡部家はそれなりに名のある武門だが、今川における席次としてはそれほど上にはいない。この冬の出来事で、なお立場を下げるだろう。
対して福島家は……武勇の誉れ高く、内政面でも立場を保持している。
「田所はどうして朝比奈領にいるのだ?」
福島家の領地は近いが、今川館は遠い。江坂殿の家臣ならば駿府詰めだろう。こんなところにいるのはおかしい。……いや、今朝比奈領で起こっていることは、目付の領分なのかもしれない。
「やはりこの騒ぎは、今川館でも注視しているのだな」
「はい。我らも動きには気を配らねばなりませぬ」
その時、ドドドと廊下を走る足音がした。隠す気もない豪快な走り方は、部屋に戻った小四郎殿のものだ。
「一朗太殿!」
パン! と襖が開かれ、案の定廊下に立っていたのは小四郎殿だった。
「厨で噂を聞いたぞ! 戦だっ、三河方面で戦が起きるそうだ!」
その声は大きく、おそらく宿泊客全員の耳にはっきり届いただろう。もしかすると建屋の外、隣接している宿の方まで響いたかもしれない。
ザワリ、と場の気配が揺れた。
嫌なヤツ=茶エノキこと田所弟ですw
お父さんが狙われたことに腹を立てています
多分このころはまだ、お勝のことはよく知らないので、福島上総介の嫡男、江坂志郎衛門の甥としか認識していないはずです




